誰しも、歳を取る
誰しも、老いを迎える
老いて、恥をさらすより
最後に
枯れ木に花を、咲かせたもう
誕生日が来るたびに「歳をとる」というより「老いる」という言葉の方が、実感として感じられてまいります。
六十過ぎた今、私は、腰痛や身体の疲れを誤魔化しながら、施設で、人生の先輩方のお世話をさせていただいております。
この施設には、若いとき骨髄バンクを立ち上げ、今でも、ボランティアに毎日出かけて行くおじいさんや、生い立ちから、将校としてのビルマでの戦争体験、そして現在迄を綴った、自叙伝の出版に精を出している九十三才のおじいさん、あるいは九十を過ぎてから恋に落ち、毎日、一日中手を繋ぎあっているカップル等々、それぞれに余生を楽しんでいる方々が、何人もいらっしゃいます。
しかし、施設の入居者は、全介助で車椅子生活を送っていらっしゃる方々や、歩けても、重度の認知症で、施設を抜け出したり、子供が面会に来ても
「あなたは、どなた?」
と、自分の子供の名前も分からない方々が、多いのです。
それでも入居者の中には、まだ若者に負けるものかと、気概を持った方々が何人かいらっしゃいます。
そして、その方々の数名が、ある日、施設内での生活に嫌気が差し、ある事件を起こしてしまいました。
ふと窓の方を見ると、さっきまで真っ暗だった空が、少しずつ明るくなり、広大な湾の対岸に聳える雄大な山のシルエットを、くっきりと浮かび上がらせている。
一日に七回色を変えるといわれるこの山は、太陽を背に黒から始まり、徐々に青から緑に変わっていく。そして夕方になると夕焼けで真っ赤に染まり、その背後からは、月が悠然と昇ってくる。
「今日も良い天気だ。」
ベッドの中で目覚めた角 謙三は、カーテンの隙間から見える、少し明るくなった空を見ながら呟いた。
この時期になると、海沿いに建つこの有料老人ホームから見える朝日は、目の前の山の頂から顔を覗かせるようになる。雄大な山を湾の上に映しながら、もうすぐダイヤモンド富士さながらの景色が、目の前に現れて来るはずだ。
「きゃ~ 助けて~」
隣の部屋から、大きな叫び声が聞こえてきた。
「ああ、またか。隣の認知症のおばあさんだ。この前はベランダに、熊がいると言って叫んでいた。いつものことだ。」
そう心の中でつぶやくと
名字から謙三は「かくさん」と呼ばれている。八階建てのこの施設には、入居者が七十名余り住んでいるのだが、夜勤者は三人しかいないので、朝は、特に忙しくて手が回らないのだ。
暫くして、小柄ではあるが色白でぽっちゃりした、遠くから見ると高校生にも見える、三十代半ばの女性職員かよが、部屋に入ってきた。
謙三はこのポニーテールの女性を、ここの施設で、一番かわいいと気に入っている。
「もう起きますか?それじゃ、パッドを交換しますね」
と言うと、彼女は慣れた手つきで、謙三の掛け布団を剥ぎ、リハビリパンツとズボンを足元へずらすと、下半身を覆った紙おむつを開き、ビニールの手袋をはめた手で、陰部を包んだパッドを外した。
「今日は、いっぱい出ましたね」
そう言うと、尿で重くなったパッドを新聞紙にくるんだ後、ごみ箱にポイと捨てた。
「今日は、便も出てますよ」
彼女は、謙三を横向きにすると、お尻の便を、パッドとお尻拭き用の濡れティッシュで拭き取り、蓋に穴をあけたペットボトルの水を、お尻に噴き掛け洗浄した。そしてお尻用のパッドを交換し、陰部もパッドで包み、リハビリパンツを履かせた。それから手際よくパジャマのズボンを脱がすと、ジャージに履き替えさせた。
謙三は、自分の子供よりも、若くてかわいい女の子に、下の世話をしてもらう事が、最初の頃は、恥ずかしさで抵抗があったが、徐々に慣れてきて、最近は、快感さえ感じるようになってきている。
「さあ、起きましょうか」
かよはそう言うと、謙三を抱きかかえ、ベッドの端へ座らせた。そして、車椅子を謙三の健側の左側へ持って来ると
「車椅子へ移りますよ」
と言いながら、謙三の前に立ち、謙三の両脇の下から、自分の手を背中の方へ差し入れ、抱きかかえながら、謙三を立たせようとした。
謙三は身長が173㎝あり、小柄な彼女には大変な作業である。その時、謙三の顔は、かよの胸の谷間にあった。
「ああ、至福の時だ。このまま窒息して死んでもいい」
うっとりしていると
自分よりも随分と若い妻が、先に亡くなってしまったことを、謙三は現実のものと考えられなかった。若しかしたら、と思い、何度も彼女の携帯を呼び出してみたり、メールを送ってみたりしたが、やはり何にも応答がなかった。
あの世への道は一方通行なんだ。なんとか帰りの道を探して帰ってこないものか、と思ったりもした。
それからというもの、謙三は自暴自棄になり、何もする気が起きなくなった。この世には、神も仏も存在しない。絶対に、神も仏も信用するものかと思った。
夫が亡くなると、妻は長生きをする。逆に妻が亡くなると、夫は後を追うように、あの世に旅立ってしまうのが通例だ。厄介者の夫が亡くなると、妻は楽になり長生きをするが、妻が亡くなると、夫は何にも出来ずに、直ぐくたばってしまう。
この施設でも、夫婦で入居していた方の旦那様が亡くなった時、仲のよかった奥様を、随分と心配したが、落ち込んだのは亡くなった数日だけで、時がたつに連れ、逆に本人は明るくなり、認知症も少しずつ改善されてきた。
謙三も脳梗塞で倒れたとき、やはり俺もあの世に逝ってしまうのか、と思ったが、目が覚めた時、幸い、そこはあの世ではなかった。謙三にとって幸いにもなのか、不幸にもなのか、自分でも判断がつかなかった。
二人の子供たちは都会に出て行ってしまい、一人暮らしをしていた謙三は、片麻痺になってしまうと、自宅での一人暮らしが出来なくなってしまった。自分の年金で何とか入れる施設をと、ケアマネージャーに探して貰い、ここの老人ホームに入ることになったのだ。
謙三の世話が終わると、職員のかよは、慌ただしく部屋を出て行った。
彼は三歳の時から描いているという絵を、色紙に毎日描いては、職員や入居者に配っているのだが、余りにも貰うのが増え過ぎてしまい、その殆どが本人にわからないようにゴミ箱行きとなってしまっている。それでも本人は、みんな喜んでいる、人の役に立っている、という自己満足を生きがいにし、毎日一生懸命絵を描いている。
なぜそういった行動をするのか、本人にも分からない。無意識に体が動いてしまうのだ。すけさんは皆に挨拶した後、冷蔵庫から自分の納豆を取り出し席に着いた。
暫くすると、上半身は殆ど動かさず、足だけを摺り足で歩くみよちゃんがやって来た。
彼女はまだ七十代で、上品な顔立ちをし、穏やかな雰囲気を持っているのだが、高度の認知症があり、自分の今の状況が、殆ど分からない。
「私、もうご飯は食べたかしら?」
「ご飯は今からだよ」
と、社長が言うと
「やっぱり。どうりでお腹が空いたと思ったもの。朝ごはんなの?昼ごはんなの?」
「朝ごはんだよ。早く椅子に座りなさい。」
と、社長に言われ、彼女はゆっくりと席に着いた。
職員が、リクライニング式の車椅子に乗ったおばあちゃんを連れて来て、席に着かせた。
彼女は殆ど動けない。車椅子に寝たきりで、一応席に着いたものの、ご飯は部屋でお腹に開けた穴から、職員が宇宙食みたいな、袋に入った流動食をチューブを通して胃に流しこむ。いわゆる「胃瘻」というやつだ。
最近、医者は手術で儲けるために、あるいは食事介助の手間を減らすために、少し嚥下が悪くなると、直ぐにお腹に穴を開けたがるらしい。しかし、実際に口から食べる練習をすると、食べられるようになる人も多く、ここの施設でも、口から食べられるようになった人が何人かいる。
大腸のS状結腸をお腹の外に出し、人工肛門を作り、便をパウチと呼ばれる袋に排泄する、いわゆるストーマの人も数人いる。
謙三は右麻痺になってから、言葉を喋れなくなり、悔しくてしょうがなかったのだが、ある日、目の前の、目だけが動いているそのおばあちゃんを見ていたら、どこからか声がする。
「お兄さん、お兄さん」
と、声が聞こえる。自分はお兄さんではないし、でも周りには誰もいない。
もう一度おばあちゃんを見ると、目が自分をみているし、確かに自分を呼んでいるように見える。
「そうだよ。貴方だよ。口がきけない者同士は、心で話ができるようになったりするんだよ。」
「そうなんだ。信じられない。でもうれしい。久しぶりに人と話ができる。」
謙三はうれしくてにっこりすると、顔の表情さえ作れない、無表情のおばあちゃんの顔も、少しうれしそうに見えた。
人間はある機能が失われると、違う機能が発達するというが、言葉を失ったおかげで、テレパシーの能力が発達したのだろうか。
謙三にとって理由はどうでもよかった。ともかく、謙三は喋れない者同士だけでも、意思疎通が出来るようになって嬉しかった。
「おばあちゃん、おはよう」
謙三が、おばあちゃんに挨拶をすると
「あなたは若くていいね。私は若いとき公務員をしてたんだよ。一生懸命に仕事を頑張ってきたのに、年金も子供たちに取られ、揚げ句の果ては、こんなところに入れられてしまった。それになんにも動けないし、話も出来ないもんだから、ここの職員にも子供扱いされるし、赤ちゃんと同じだよ。何のために生きているのか分からない。もうお迎えが早く来てほしいんだけど」
と、声が聞こえると、おばあちゃんの顔が悲しそうに見えた。
「おばあちゃん、おばあちゃん。そんなことを言うもんじゃないよ。僕なんか、まだ七十代なのに、こんなことになっちゃって。悲惨なもんだよ。言葉を喋れないもんだから、二十代三十代の職員たちにも、馬鹿にされる始末だ。だけど、嫌われないように気を使わないといけない。嫌われたら世話してもらえないからね。情けないもんだよ。」
謙三は情けない顔をしながら、目の前のおばあちゃんに語りかける。そしてみよちゃんの方を向き
「おばあちゃんは、一人暮らしだから、施設に入るのは、しょうがないとしても、あそこのみよちゃんなんか、この街に、子供さんが何人もいるのに、認知症になったとたん、誰も引き取ろうとしない。昔は汚い養老院があって、そんなところに入れようものなら、周りから、姥捨て山に親を捨てた、と言われそうで、しょうがなく、子供が面倒見なければならなかったのに、今は綺麗な施設が沢山出来、施設に入れるのが、抵抗なくできるようになったもんだから、みんな家族と離れ、見ず知らずの人達と一緒に、生活しなければならなくなった。会いに来ることも殆どないよ。きっと、今の子供たちも、歳を取れば親の気持ちがわかるだろう。おばあちゃんも寂しいだろうけど、何かあったら僕に言ってよ。何にもできないけど、聞いてあげることだけはできる。」
「あんたこそ自分一人で悩まないで、私に相談しなさいよ。ここは全く監獄と一緒なんだから。若いあんたには辛すぎると思うよ。」
暫くするととことこと、杖を突いた九十六歳のお婆ちゃん外園さんが、食堂にやってきた。この階では一番高齢ではあるが、頭も体も一番しっかりしている。
「みなさんおはようございます。今日もいい天気ですね。」
と言いながら席に着いた。
「外園さんはどうもないみたいだけど、なんでこの施設にいるの?子供さんもいるんだろうに。」
社長が聞いた。
「私は島にいたのよ。島の子供たちは、中学校を卒業したら皆、集団就職で東京や大阪に行っちゃうんだ。だけどね。私は、頑張って子供たちを、本土の高校へ出したんだよ。ほとんど食うや食わずの生活で、子供三人に仕送りをしてきたよ。ポンカンやサトウキビを作ったり、牛や豚を飼ったり。島で現金を作るって、大変なことだったよ。高校卒業したら、子供たちは、大学や就職で皆、都会に出て行ってしまった。主人も死んで、残された私は、一人ぼっちになってしまって。だからここに入ったのよ。」
田舎では、親が死に物狂いで子供を育て、都会に送り出してきた。その子供たちが、日本の高度成長を作り出してきたのだが、田舎では、年老いた親だけが残されているのだ。
最後に、九十二歳の元将校のおじいさんも、朝の挨拶をしながらやって来て
「ほら見てごらん。大きな豪華客船が入ってきたぞ。今日の船は、十一万七千トンだ。ここに入る船では、一番大きな船だ。」
と、皆に、外を指さしながら言った。
外を見ると大きな船が、朝日を受けキラキラ輝きながら、今まさに、港に入ろうとしていた。そこの波止場は、豪華客船の誘致のために、自然を破壊して作った人工島で、月に数回、豪華客船が入港する。
「あれはイギリスの船だ。一度でいいからあんな船に乗って、どこか遠くへ行ってみたいもんだ。天国へ行くとしたら、あの船で三途の川を渡りたい。しかし、ああいう豪華客船に乗って世界一周をしている人間もいれば、こんな箱の中で、回りに気を使いながら、死を待っている人間もいる。哀れなもんだ。」
元将校さんは、しみじみと言った。
「しかし、人工島にしても、原発にしても、あれだけ反対しておきながら、最近は、何事もなかったかのように、静かになってしまった。もちろん、お上も、それを見込んで強行するんだろうけど。」
と、社長が言った。
エレベーターが開く音が聞こえ、食膳を乗せた台車が到着し、職員が食事を配った。胃瘻のおばあちゃんは部屋に帰り、後のメンバーは、テレビを見ながら、黙々と朝食をとった。
朝食が終わり、部屋に帰って暫くすると、ドアをノックする音が聞こえ
「謙三さん、今日はデイサービスですよ。一階に下りてください。」
と、職員の声が聞こえた。
「そうか、今日はデイの日だったんだ。」
謙三の場合、デイサービスに通う日は、週三回組まれている。子供達が、毎日学校に通うのと同じように、朝から夕方まで、デイサービスに通わなければならない。
あるおばあちゃんは
「ここは幼稚園と一緒。養老園だよ。」
と、いつも言っている。
謙三も、あまりデイサービスには行きたくないのだが、ケアマネージャーという人が、強引に組んでしまっている。本来は、自分で決めるものなのに、年寄りには判断能力がないということで、ほとんど、ケアマネージャーが決めてしまうのだ。
デイサービスの回数は、本人の必要性に応じて決められるものだが、現実には施設の利益が優先される事が多い。
医療保険とか介護保険は、点数で収入が決まっているので、競争相手と価格競争になることがないし、回数が多いほど利益が上がる。美味しい商売なのだ。
謙三が若いころ、病院に行った時
「ちょっと高すぎるよ。もっと安くできないか?」
と値切ったら、病院の受付の人が
「はあ?これは国が決めているので、安くはできないんです。病院で値切るなんて、初めてですよ。」
と小馬鹿にされた事があった。
これはいい商売だ。どの商売も、価格競争で苦しんでいるのに、この世界だけは定価で商売できるんだ。これは美味しい商売だ、とその時思ったものだ。
一階に降りると、まだ誰も来ていない、と思ったら、いつもの玄関のドアに窓際のよっこちゃんが立っていた。
「私、帰りたいの。うちに帰るの」
よっこちゃんは一人暮らしで、その家も子供たちが処分してしまい、帰ろうにも帰る家もないのだが、認知症の彼女には、そういう事情は分からない。毎日、一日中玄関のドアの前か、窓の前に立っている。玄関のドアは二重ドアになっており、内側のドアは、右端と左端のスイッチを、両方押さないと開かないようになっている。彼女にはそれがわからず、ただただ毎日ドアの前に立っている。
次に、眼鏡をかけた、背の低いかめさんことカメマツさんが、シルバーカーを押しながら、玄関にやってきて
「今日は、娘はまだ来ないですか?」
玄関横の、事務室の女性に向かって聞いた。
「今日は来ない日ですよ。さっき言ったばかりでしょ。今日もう三度目ですよ」
怒ったように、かめさんに言った。
かめさんの娘さんは、水曜と日曜にやって来て、一緒に出掛けることになっているのだが、彼女には、曜日の感覚はない。毎日、何度となく玄関に行っては、娘さんがやってくるのを待っている。
謙三が、デイルームの、いつもの席について待っていると、次から次に、デイ利用者の人たちがやって来て、それぞれの席に着いた。ここでは、毎日三十人の人たちが、デイを利用している。
「うわ~」
男性職員の叫び声が、デイルームに鳴り響いた。デイの入り口付近を見ると、車椅子に座ったおばあちゃんが、男性職員の股間を握っていた。
目のぎょろっとした、そのおばあちゃんは、リクライニング式の車椅子に、横たわるように乗り、体はほとんど動かないのだが、顔面と手だけは動き、理性は失われ、男性の股間ばかりを、いつも狙っている。
「油断した。忙しくて、そこにいるのに気が付かなかった」
と、苦笑いしながら、逃げるように、その男性職員は、別の利用者の送迎の為に、エレベーターに乗り込んだ。
九時二十五分から、デイサービスが始まる。血圧や体温を測ったりした後、まず、ラジオ体操をスクリーンを見ながらするのだが、どんなに認知症が進んでいても、ラジオ体操は皆、覚えているらしい。スクリーンを見なくても、皆、音楽に合わせて、手足を動かしている。
九十六歳のおばあちゃんが、
「ラジオ体操なんて、見なくても覚えているよ。私は記憶力がいいんだよ。私たちが小学一年生の時の教科書には、まず最初に、さいた、さいた、さくらがさいた、が書いてあったよ。」
と言うと、周りの利用者たちが
「こいこい、シロこい。すすめ、すすめ、兵隊すすめ」
と続きを合唱し、大笑いする。
昔の若い時に刷り込まれた長期記憶は、なかなか忘れないものらしい。
その九十六歳のおばあちゃんには、物盗られ妄想があり、財布などを置いたところを忘れ、誰かに盗まれたと、殆ど毎日、騒いでいるのだが。
体操が終わると、入浴の順番を待ちながらお茶タイムになる。皆、銘々にお茶を飲みながら、隣の人と談笑をする。
「私は、辞め金でヨーロッパを回ってきたよ。ベルサイユ宮殿やロマンチック街道に行って来た。トレビの泉で、また来れますように、と言って、後ろ向きでお金を投げたのに、もう行けなくなってしまった。あの時、行っといてよかった。近所の人たちは、辞め金を使って外国へ行って、いい身分だこと。と言っていたが、お土産を渡すと、よかったねえ、とコロッと変ったよ。人間、現金なもんだね」
小柄な、片麻痺のため歩行器でようやく歩く「よっちんがったんさん」と呼ばれるおばあちゃんがそう言うと、目の前に座っていた元美容師のおばあちゃんが、
「またその話をしてる。辞め金て退職金のことなんでしょう。その話はもう聞き飽きたよ!」
と叫んだ。そして
「私なんかね。昔、映画女優にスカウトされたんだよ。でも断った。映画女優も、いい時はいいけど、悪い時は何にも仕事が来なくなるから、手に職をつけなさいって、保険会社の支店長をしていたおじさんに言われて、美容師になったんだよ」
よっちんがったんさんが、手を横に振りながら
「その話も、何度も聞いたよ」
と反撃し、みんな大笑いした。
その隣にいた、八十歳ぐらいの、妄想の激しいおばあちゃんが、
「私の甥っ子は、石原裕次郎なんだよ。朴大統領も私の親戚だし、大統領選に出たヒラリーさんも、遠い親戚になるんだよ。」
と、言うと、
「そりゃすごい。今度、私にも会わせてちょうだい」
よっちんがったんさんが、手でグーチョキそして頭の上でパーをし、
「みんなこれだから、だからここにいるんだよね」
と言うと、皆で大笑いになった。
元美容師のおばあちゃんが、ふと横を見ると、昼はいつも寝てて、夜になると起きだし、徘徊を始めるおばあちゃんが、いつものように、椅子に座ったまま寝ている。
「また寝てる。ほら起きなさい。どうせ、もう少ししたら、永遠に眠れるんだから。」
「あああ、また寝てたね。でも、早く永遠に寝たいんだけど。」
と、言いながらまた寝てしまった。
皆、それぞれに言いたいことを言い、そして毎日、同じ話を繰り返しながら、時が過ぎていった。
「さちこさん、お風呂ですよ」
入居したばかりで、初めてデイサービスに来た、まだ七十代のさちこさんを、職員が迎えに来た。
お風呂に行くと、男性職員が、
「さあ服を脱いで、お風呂に入りますよ。」
と言うと、さちこさんは
「きゃあ!何をするの。男の人は出て行って。」
と叫んだ。
先に裸になっていた、隣のおばあちゃんが
「大丈夫。最初は恥ずかしいけど、直ぐに慣れるよ。自分で入れないんだから、しょうがないじゃない。」
さちこさんは、渋々、裸になって、男性職員に背中を洗ってもらう。男の人に体を洗って貰うなんて、考えられない。特に、男尊女卑の時代に育った人達には、あり得ないことなのだ。しかし、他の人達は当たり前のように、若い男の人に、体を洗って貰っている。今では慣れて、皆どうもないらしい。
「あ、またやっちゃった。」
職員が、眉をしかめながら言った。浴槽の中に、茶色いものが浮かんでいる。
「また、お風呂のお湯を替えないといけない。」
まだ良い方だ。ズボンを脱がすと便だらけとか、体を洗っている最中に、便が出る人もいるのだ。
お風呂も終わり、昼食も終わると、昼寝の時間になる。眠くもないのに寝ないといけないなんて、おかしい話だが、つまらないデイサービスに付き合っているよりは、まだ寝ている方が楽だと思い、謙三もベッドに横になる。
みんなが寝静まると、職員のヒソヒソ話が始まった。ここの職員は、元々声がでかいので、ヒソヒソ話にはならないのだが。
「俺はここを辞めるよ。ここの給料じゃ、家族を養っていけない。」
「本当だね。なんで介護の世界って待遇が悪いんだろうね。今から一番必要な職業なのに、こんな給料じゃ、なり手がないよ。パートのおばさんの為の職業だね」
「旦那の給料が入って、奥さんの小遣い稼ぎのための職業だね。毎月の給料が十五万もあればこの世界では高給取りだからね。」
「あべちゃんが、介護離職ゼロとか言っているけど、資格を取るのに入学金を安くするとか、再就職したらお金をあげる、とかじゃだめだよ。分かってないね。待遇をよくしないと、同じことだよ。」
「介護報酬は決まっているし、その介護報酬も減る一方だ。昇給なんてありえない。介護の世界なんて、お先真っ暗だよ。これでは、結婚することもできない。現場をよく見てほしいよ。あべちゃん。」
ベッドに横になったまま謙三は、
「なるほど、介護はそんなに待遇が悪いのか。きつい、汚い、それに給料が安ければ、誰もなり手がいない。これから、団塊の世代の人達が歳を取れば、一番必要な職業なのに。昔の若い人は、こんな仕事は絶対にしなかった。まったく頭が下がる。自然は水のように、高いところから低いところへと流れる。しかしお金は逆だ。持っている人の方へ、お金は集まる。経営者が儲かるばかりだ。きつい仕事を、一生懸命頑張っている人達の待遇を良くしないと、日本はおしまいだ。」
と思いながら、いつの間にか、夢の中へと入っていった。
午後は脳トレが始まった。二桁の足し算と、二桁の掛け算と割り算のプリントが渡された。
謙三は、
「馬鹿にするんじゃない。俺は大学も出てるんだぞ。こんな、小学生みたいな問題ができるか」
と、心で言いながら、プリントをやってみるが、足し算はできても、二桁の掛け算がなかなかできない。それでも掛け算を何とか終わらせたが、割り算となると、全くやり方が分からなくなっている。
謙三は
「これは脳トレなんかじゃない。自分が、これだけの能力しかないんだというのを、認識させるためのプリントだ。プライドを、ズタズタにするためのプリントだ。」
と思った。
その隣でも、九十二歳の元将校さんが怒っている。
しかし彼のプリントを見ると、全問答えが書いてある。職員が
「すごい、全問正解ですよ。」
と言うと、彼は
「こんなもん、できて当たり前だ。もっと、歯ごたえのある問題を持ってこい」
と言うと、改めて職員が持ってきた四字熟語の問題を解き始めたが、これも、あっという間に終わってしまった。
職員に答え調べを頼むと、職員は
「私にも分からない。解答を持ってきますね」
と言い、正解の書いた紙を持って来たが、やはり全問正解であった。
「おみそれいたしました。」
と、恥ずかしそうに、職員は退散していった。
このおじいちゃんは、昔の中学を出た後、幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、ビルマの戦地で将校として活躍して復員したのだが、つい先日、自叙伝を自費出版したばかりの方である。
謙三は、九十歳代のおじいちゃんに負けたことが恥ずかしく、悔しかった。
暫くして、デイサービスの、終わりの体操が始まった。それが終わると、階ごとに、エレベーターで部屋に帰ことになる。
しかし、体操がまだ終わっていないのに、数人が、エレベーターへと移動を始めた。
「まだデイサービスは終わっていませんよ」
と、職員が言っても、
「終わった終わった」
と言いながら、車椅子を漕いだり、杖で歩いたりしながら、我先へとエレベーターへと急いで行く。