難しい、とは?

私のおじと、先生について

私の母方のおじについてまず書きたいと思います。おじは、昔はわけへだてなく、自分の子供も、メイである私もわが子のようにかわいがってくれていたのですが、おばの影響で、次第に自分の子供しかかわいがらなくなっていきました。あからさまに、私を愚か者扱いし、自分の子供こそ、優秀である、という態度をとりました。

私は、精神病患者です。おじは、私を差別していたのかもしれません。精神病薬で少し太っていた、当時の私を、「関取」と呼ぶ始末でした。(私は体重が64キロ、身長が160センチでした。)

私は、そのあと、A病院に三回入院し、やせて少しだけきれいになりました。・・・というのは、顔に生気が宿ったのです。

これから書く、難しい問題とは、私のおじと、私を治してくださった先生を比較しながら書きたい、心の正しいあり方についてです。

先生は、O先生と言いました。昔は「正しい人」であった、当時のおじに少し似ていたのかもしれず、しかし、全く違います。先生は、さっぱりとした、素敵な人でしす。ゆがんだところの全くない人でしす。一方のおじは、怒るといつまでも根に持ち、話し合いすらしようとしない、暗く陰湿なものを持っていたのでしょう。だから、人間を差別して自分の家庭、子供さえよければいいというおじ、たくさんの患者さんをわけへだてなく治す立派な精神科医の先生、に道が分かれたのでしょう。

しかし、私は、おじ以上に、ある時は激しく先生を憎みました。おじは、たいへんねちねちした、しつこい人で、嫌なおじさんにしかならなかったのに、なぜ私は明るくさっぱりしたO先生を時に激しく憎むのか。

「正しさ」なんて、ない!!

私は、O先生の、正しさが嫌いで嫌いで仕方がないのだとわかってしまったのです。これは、私の罪なのです。カントという哲学者は、「単なる理性の限界内の宗教」で、正しさはない、と真剣に考えぬいています。その通りです。だから、人は苦しむのです。カントは一生独身で考えぬいたのです。しかし、先生には、「正しさ」が心の中に、すでに存在しているのです。家族、子供、立派な仕事を持ち、挫折していないのです。当然のことです。

私は、正直に言うと、O先生を愛してもいます。あんなに素敵な人はいない。しかし、憎い。どうして、正しいだけの人がいるのか、ということを考えると、苦しんでいない、もがいていない、自分は醜いと思ってはいない、先生が、好き、と同時に大嫌いなのです。

罪が露見してしまった人

私は、家族同様に時を過ごしてくれた、隣の家族に、病気が出たとたん、気持ち悪がられて家にいられなくされました。隣の奥さんは、最初、うちの子供たちもみんなで、ディズニーランドに行きましょうとまで言ってくれていたのに、私に幻覚が出たとたん、あることないことを吹聴し、私の居場所を奪い、私は単身で遠いところに引っ越しました。私は何も罪をおかしていないのに。病気になっただけです。

その私を、先生は、「君は自分が悪いとひとつも思えないのか、」と言い捨て、診察は終わりました。私は病室で三日泣き明かしました。

しかし、私は自分が幸せになったとたん、(私に新しい土地で家族ができました。また、大好きな訪問看護師さんが家にいつも来てくれます。)隣の家族は、病気を差別した、という大罪が露見した、かわいそうな人、いつか神様に大きく罰せられる人、としか見られなくなり気持ちは晴れました。

しかし、先生が嫌だ、という気持ち、私はこの、自分の罪、正しいだけの人が嫌い、という罪とは、一生戦うつもりです。それが、たとえカントが一生解ききれなかったこの世でいちばん難しい問題でも。

私は、おじと先生の、決定的な違いを知っています。おじは、人生の敗者。人を差別して、自分さえよければいいと思っている、しかし、もう定年して社会とも関わっていない。しかもけちで底意地の悪いおばが施すわずかなお小遣いで生きている落伍者です。しかし、先生は、だれからも尊敬され続ける、たとえうらまれることがあっても、強くのりこえて立派な医師になっていく、勝者です。

それなら、私は先生の正しさを憎みたくなんかないのです。先生が嫌なのは、私が自分のだめさと徹底的に戦っているということだからです。私は、カントの人生最後の戦いを、哲学者であり続けることで、していきたいと思います。

karinomaki
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