日常の幸せとは?

幸せとは?

最近、幸せとは、とても深いものであることがわかってきました。幸せとは、苦難に打ち勝って勝ち取るものです。

例えば、何の苦労も知らずに、幸せを受け取っているだけの人は、毎日の濃さを知らない人です。時間の濃さとは、物事を深く考える人の宝物です。

私は、二つ宝物を心に持っています。この、抽象的な宝物を、何かで表したいと思っていました。私の宝物は、苦しみと喜びなのです。

ずっと、苦しみを哲学して上昇し続け、やっと、幸せの頭上が見えました。私は、カントの哲学をずっと勉強していました。しかし、カントの哲学は、私にとって、苦しみとともにあり、カントも、一人で哲学し続ける私を、幸せにしたいと、天上から見て思ってくれていたでしょう。私は、苦しみの上に、やっと平安があるのを見ました。しかし、その平安は、カントが考えていた、宗教ではありませんでした。限りなく近いと言えるのですが、平安は、宗教のようなゴールに近いものではなく、新たな、日々を充実させる、上昇しつづける日常でした。私は、この考え方にいちばん近い宗教は創価学会だと思います。

私は、二つの貝殻の形をした、赤と青のピンを買いました。その二つのピンで、心の二つの宝を表しました。

ペンケースとファイル

私のもう一つの宝物は、ペンケースとファイルです。私はこの二つを使って、書くことで日常を管理することに、新しい喜びを見出しています。哲学する、という目標が、ある意味達成したから。

もし、自分には何も宝物がない、と嘆く人がいるならば、自分が、何をするのが好きか、座右の銘にしていることは何か、心のよすがにしているものは何か考えれば、もう自分は宝物を持っている、とわかるでしょう。もし、何もないなら、しっかり自分と向き合えばいいのです。

自分と向き合う時間なしに、安易に結婚して毎日の忙しさに追われている女性は、たいていが、夫が大事、愛が大事、子供が大事、と言いますが、(それも確かに大切ですが)、もし、それらを失って、一人で世の中に投げ出されたら、生きていけるでしょうか。愛や、子供は、いつかは離れていくものなのです。自分の、自分だけの生きがいというものを持っていると、最強なのです。

仕事

私は、ある病院の食堂で少し働いています。同じように、病院で働いている彼と暮らしています。子供はいません。しかし、私はたくさんの薬を飲んでいるので、若いころから子供は望めませんでした。しかし、鳥を飼っていて、わが子のようにかわいがっています。仕事があり、伴侶がいて、私は幸せです。

しかし、仕事がない頃、私はただ一人で哲学の研究をしていました。それはそれで満ち足りていたのですが、たいへん苦しかったです。哲学は、苦しい学問でした。しかし、その苦しみが、今の私を作ってくれました。

哲学は、お金にはならないけれど、私の仕事でした。子供を育てるという人生に比するものであったと実感していました。創造するという喜びは、今も私の手の中にあります。そして、今の仕事は、毎日、「日常を生きている」という幸せを感じる、かけがえのないものです。どんな仕事も、自分にあっていれば、喜びなのだとわかってきました。

哲学の夢が叶って、日常を愛する・・・そのための今の仕事で、これから大きなことができるかどうか、それは、やはり日常を幸せだと感じる力にかかっていると思います。夢というものは、毎日を充実させ、幸せに仕事をしたその先にあります。

karinomaki
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