将棋は格闘技

はじめに

私は、将棋の駒の動かし方は知っているつもりですが、戦略や戦術を知らないこともありまして、将棋を指しますと負けてしまう場合が多いのです。


ある日、地元の東海出身で、十四歳の中学生プロ棋士としてデビューして、二年も経たないうちに、現在、十五歳の六段になった藤井聡太氏の将棋をPCで観て以来、もっぱら「 観る将 」になってしまい今に至っています。


そんな私が、今こんな記事を書くのは、将棋界のことを知るうちに、将棋の対戦が終わった後3キログラム痩せるくらい、「 将棋は頭の格闘技だ 」と知るようになり、それがどのような場合に、格闘技というのだろうか?と興味を持ったからです。

 

これは、まったくの素人の解釈ですので、創作話あるいは机上の空論として閲覧して頂きますようお願いします。


第一章 「 気 」についての説明

1、 これは、「 誕生から死後までの意識 」の実践編ですので、私が使います「 気 」について説明したいと思います。


詳しくは、電子書籍をご覧ください。

 

ここで言う「 気 」の内容はエネルギーで、それを五感で受け止め、自分の身体に感じたのが感情であり、それを言い表したのが「 気 」であると考えます。


外界の「 宇宙エネルギー 」を、体内の「 生命エネルギー 」に取り込み意識や無意識の力となった時、それを「 気 」と呼ぶと考えます。


例えば「 熱気(netsuki)」とか「 寒気(kanki)」などは分かりやすいと思いますが、「 空気(kuuki)」といっても、それは肺が感じた時にそう言うだろうし、「 天気(tenki)がいい 」とか言うのも、視覚や触覚で感じた意識または無意識の力であると思います。


感覚により人体の外部から、「 気(自然エネルギー)」を取り入れるためには、頭脳は電磁波の構造を持つ必要があるというのが、私の主張です。



詳しくは、電子書籍をご覧ください。

 

2、それに付けくわえる事

 

人間は、感覚器官により捉えた感情を「 気持ち 」といい、気持ちがよいとか気持ちいいとか申しますが、この「 気持ち 」は、流れるものである生命エネルギーの無意識の「 気 」として、知らず知らずのうちに、人体の外部に漏れ出していて、それを他人が察知できると考えます。


流れ出したものが「 心 」となって、人から人へ、時代を超えて伝わるものだと考えます。


また、「人のいるようす」を人気(hitoke)といいますが、人を取り囲む雰囲気が他人に伝わることで、人の存在から流れ出るからこそ、雰囲気が存在するのだと思います。

 

 


第二章 格闘技について(「 考えるな感じろ 」……という言葉を中心にして)

格闘技と言って思いついたのは、カンフーのブルースリーのことでした。


彼は「 考えるな、感じろ 」と言いましたが、そのあとの事は、武道家にしかわからない心情であると思いました。


ネットで調べましても、「 考えるな、感じろ 」につて、私を納得させる詳しい説明を見出すことができませんでした。


「 考えるな、肌で感じろ 」と言う人もいますから、多分、修行して空間感覚を鋭くしなさいという事だろうと思いますが、肌で何を感じて、その後、どうするのでしょうか?


武道家ではない私は、彼の言葉をつぎのように考えました。

 

 

1、「 考えるな、感じろ 」というのは何を感じるのだろう?

 

ネット情報では、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」という意味らしいですが、私は次のように考えます。



考えるには時間が必要で、時間は「 間(ma)」ですから、「 隙が出来る 」のは分かります。


しかし彼は、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」と言って、時間を必要としない「直感」を強調します。

 

 

では、「 直感的に 」とは、何を直感するのでしよう?


「 何かと考える前に、何かを感じろ 」というのでしょうが、「 何か 」とは何でしょう?

 

「 感じる」という漢字は「 感動 」や「 感情 」という言葉にも使い、「 感動 」は一瞬だけのエネルギーを俳句や短歌や詩などの「 物語(脳内の回路)」にしたり絵画にしたりして保存し、後日、脳の働きで蘇らせて他人に伝えますから、五感で感じたエネルギーを体内に取り入れたものを「 気 」と私は考えますから、彼は、感動などの「 気(実際はエネルギー) 」を感じろと言っているように思いました。

 

第一章で書きましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)と生命エネルギーがあり、前者を「 感じる 」ことについては後述しますが、彼は、格闘技ですから、後者を「 感じろ 」といっているものだと思います。

 

「 それは月を指差すようなもの。指に集中していては栄光はつかめないよ 」とは、指差した「 月 」が現実の「 月 」ではなく、「 格闘術 」であり、「 指 」は彼の身体の動きであると考えると、身体の動きを考えるのではなく、見えない「 格闘術 」を「 感じろ 」あるいは身体を動かすエネルギー(気(ki))を「 感じろ 」というのだろうと思いました。

 

 

2、「 感じて 」その後、どうするのでしょうか?

 

2-1、格闘術に対する自分の運動可能性はどの程度か?

 

私は、「 意識は電磁波の構造を持つ 」というとき、それから得られた「 運動可能であるという能力 」は、外部に行為として現実化しなければ、認識することが出来ないだろうと思います。


ちょうど、自分の顔が鏡に写さないとわからないように。


S(距離)V(速度)×T(時間)ということを、小学校で学んだと思いますが、これら全部が、結果が出ないとわからない(乗車中、車の速度はメーターを見て知るが、速度というエネルギーは不明であるし、時間も時計を持っていない場合は不明)し、走行中では、その全部が意識であり、それらは目的地に到達した後でしか判明しないと考えました。

 

車の走行中はV(速度)がわからないのでS(距離)V(速度)×T(時間)という数式に当て嵌めて、V(速度)を計算します。


車の走行中は、車内の「 スピードメーター」で現在の車の速度が分かり、持っている時計で時間が分かるでしょうが、人生を走行中の人間は、走っている自分の速度(可能性という能力)は分かりません。


車の走行可能な速度は「 性能 」といい「 車の能力 」でしょう。

 

人間について考えますと、多分、仏教の考えだと思いますが、ネットで検索すると、「 身体は借り物、魂の乗り物 」という言葉がヒットします。

 

身体はまさしく走行中の乗り物だと思われ、その乗り物のV(速度)は「 車の性能 」であり、「 能力 」ですから、「 運動可能な性能・能力 」が速度Vであると思います。

 


2-2、格闘術の獲得に対する自分の運動可能性の習熟度を認識し、臨機応変に反応する。

 


私は、人生の途中である「 走行中 」の数式をS(空間意識)=V(自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギー)×T(時間意識)と私は置き換えます。


S(空間意識)は右脳の働き、T(時間意識)は左脳の働きと、それぞれに計算した結果、V(運動可能性という能力)が意識されます。

 

過去に五十メートルの高さを何分で走ることが出来るか行為した結果、自分の運動能力が自覚され、それを分速や秒速として、過去のデータで現在の自分の能力を測る指針とするのだと思います。

 

V(自分の運動可能なエネルギー・能力)S(右脳の働きによる空間意識・到達すべき目的までの広がり)÷T(左脳の働きによる時間意識・目的達成のために求められる一般的なエネルギーの消費の度合い)

 

私は、「 空間 」を「 運動可能な余地 」としましたから(誕生から死後までの意識、第一章、6、)、この数式を、「 自分の運動可能な余地(S)を、何分(T)で、あるいはどの様なリズムで、埋める力(エネルギー)が自分にあるのか? 」という意味に解釈します。

 

「考えるな、感じろ 」というのは、「 考えが発生する前に行動しろ 」ということで、武道家の彼がそういうのは、時間がなくても反撃可能であるように自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処せよというように、私は解釈しました。

 

私の考えでは、「 気 」の発生に伴って右脳と左脳が働いて時間や空間などの認識が発生すると考えますから、「 考える 」、つまり、脳内で認識する前に「 気 」を感じて行動しろという意味だろうと思います。

 

VS÷Tにおいて、Tが限りなく小さければ、V(空間意識・目的達成地)=S(自分の能力が及ぶ所)で、到達すべき自分の運動可能な余地(S)を完全に埋めることが出来るように、自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処しなさいというように解釈しました。


 

「気(=エネルギー)」を知るなら、そのエネルギーは「 時間 」と「 空間 」という認識する形式を伴って、現れるから、事前に、「 気(=エネルギー)」を知っておけば、エネルギーが形として現れる「 時間 」も「 空間 」も予測可能だと思います。

 

この「 気(エネルギー)」を捉えるためには、捉える機能が人体に必要だと考えますと、私は、生命エネルギーにより動く脳が作り出す「 意識は電磁波の構造をする 」と考えなければ、外界の「気(エネルギー)」に同調し、それを感じることは出来ないだろうと思います。

 


2-3、人間は誰でも価値観を持つ

 

しかし、まだやっかいな問題があると思います。


それは、「 心は磁場である 」からです。

 

その意味は、生命エネルギーである「 気 」は、無意識で本能とともに「 流れるもの 」で、それはDNAにより、人それぞれに「 極 」を作り、ちょうど地球が地磁気で囲まれているように、その「 極 」から発生する磁場の全体が「 心 」であると考えるからです。

 

人間には誰もがある「 極 」とは「 生と死 」であり、それを取り囲むように、その中に物事を判断する「 価値観 」が生まれ、「 死なないように 」善悪や好き嫌いを作り、生命体を維持するものだと考えます。

 

このように、人間は必ず「 極 」を作り、人それぞれに「 価値観 」を持ち、生命体を維持するものだと考えます。

 

ゲームや格闘技では、勝ちたい、負けたらどうしょう、と言う思いがその「 極 」になるでしょう。

 

しかし、これは、生命エネルギーに限ったことで、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」や「 勝敗 」という「 極 」は無く、人間の生命エネルギーが作る「 極 」に都合がよいものは「 良いエネルギー 」で都合が悪いものは「 悪いエネルギー 」として、自然エネルギーが区別されて摂取されるだろうということです。


例えば「 太陽光 」は「 良いエネルギー 」でしょうし、「 台風 」は「 悪いエネルギー 」でしょう。

 

この、自然エネルギーである「 気 」を取り入れることは後述することにして、格闘技は対立する人関係の中で起こり、生命エネルギーによる「 極 」を持つもの同士の関係であり、「 極 」つまり「 生死 」から生まれる価値判断を持つ人が、ある状況で死に面した時、生きようと動く気持ちが無意識に行動に出て、生きようともがくところに「 隙 」が出来て、相手に付け込まれ、敗北するのだろうと思います。

 


私は、このように、「 気持ち 」は無意識を含み、自分の行動を惹起させるだけでなく、それを見た相手にも、自分の次の行動が察知されるのだと思います。

 

時代劇が華やかだった昭和の頃、仇討ちに当たり、まったく剣に自身がない婦人が仇討ちを遂げる方法を剣術の先生に聞いたところ、自分も倒れる「 相打ち 」する覚悟で、相手の動きに合わせて剣を突き出しなさいと教える場面がありました。

 

「 生死 」という価値観を捨てて戦う者は、相手には不気味な存在に見えて、剣を持つ手に狂いが生じるでしょう。

 

剣に自信がない者にとって、その時が、「 仇討ち 」するチャンスなのでしょう。

 

戦時中、神風特別攻撃隊も、相手にとっては「 生と死 」の価値観を持たない自然物のように思われ、嫌がったのでしょう。

 

こうして、行動に潜む「 気持ち 」を知ることは相手の「 気(エネルギー)」を知って次の行動を予測することも可能かも知れず、それを予測することが出来たら、臨機応変に、「 直ちに 」反撃することも可能だろうと思います。

 

これは、江戸時代に、沢庵和尚が柳生但馬に伝授したという「 石火に機(せっかのき)」と同じ意味であると武道家ではない私は考えています。

 


2-4、「 空気を読め 」という態度との違い

 

ところで、このように、臨機応変に行動することが「 考えるな、感じろ 」で、求められると思いますが、職場内で臨機応変の行為を求める「 空気を読むこと 」は同じでしょうか?

 

「 空気を読む人 」は、その社会の組織の中で、組織の価値観を認識し、上手に「 泳ぐ 」ことができる人。


組織内の人間関係に順応できる人で、会社などの営業目的の達成のために「 空気を読むこと 」は、「 臨機応変 」に行動することだと思いますが、「 読む 」範囲は、自分に密接に関係し、協力し合う対人関係でしょう。

 

現代の日本で流行している「 忖度(そんたく)」も同じ種類のものであると考えています。

 

しかしながら、組織のすべての人は、DNAの違いで、すべての人が、それぞれの違ったV(速度・可能性の能力)を持つと思いますが、その違いを認めない、あるいはその放棄を要求するのが「 空気を読め 」という態度だろうと思います。

 

格闘技では「 考えるな、感じろ 」といわれ、同じく臨機応変の行為を求めますが、「 空気を読め 」とは言わないだろうと思います。

 

実際、ブルースリーが、あの映画のシーンで「 空気を読め 」といったら、どんな意味になるのでしょう。

 

その感覚の違いが、「 違い 」なのです。

 

なぜなら、格闘技は対立し合う対人関係で、「 考えるな、感じろ 」という理由は生命の存否に関わるからであり、個人の可能性を無視するのではなく、その個人本人の可能性が無限に進展することを求めるからであり、その放棄を求めるものではないからです。

 

「 空気を読め 」とは個性を無視しますから組織の人間関係の円滑化には役立つでしょうが、後述する、自然エネルギーに対して臨機応変を求める場合、その言葉は行為の指針には全く役に立たないだろうと思います。


 

2-5、宇宙(自然)エネルギーに対して「 考えるな、感じろ 」の態度で臨む

 

 

前述しましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」という「 極 」は無く、人間にとって、「生死」という生命エネルギーの「 極 」に都合の良いときだけ「 良いエネルギー 」として、自然エネルギーが摂取され、都合が悪いときは「 悪いエネルギー 」として排除されるだろうということです。


その態度は、仲間を選別するときも、同じでしょう。


人間は「 気 」が形を表現したものですから。

 

 

宇宙(自然)エネルギーは、形を変えることはあっても、消滅しない。

 

それとの闘争は、「 誕生から死後までの意識 第三章、記憶・認識から行動まで 」の1,2,3を参照して下さい。

 

人間は、時間や空間などの概念を持つ言葉で、自然エネルギーの発生や消滅の因果関係の物語を作りますが、それは「 色即是空、空即是色 」というように、自然事象を言葉で実体として捉えられないと知るでしょう。

 

それなら、捉えられない「 気(エネルギー)」を「 感じる 」ことにより、時空間に表出するものを、先取りすることを考えるでしょう。

 

「 考える 」のは、今までのデーターによる蓋然性の確率であり、これから現れることの、時空を使っての予測ですが、エネルギーの変化そのものを捉えたのではありません。

 

 

 

捉えなくてはならないのは、「 感じる 」ことにより得られる「 気(エネルギー) 」の変化そのものであり、私情や価値判断のない、生命エネルギーにとっての良し悪しとか見えるとか見えないとか大小など、「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見た場合、「 気(エネルギー) 」を捉えたと言えるでしょう。


それが「 直感 」であると思います。

 

その状態が、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

目には見えない「 気(エネルギー)」を把握した後は、それが「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるのは必然であるだろうと思います。

 

だから、「 先を読む 」とは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することでしょう。

 

発明は間違いから生まれるように、従来の手順にはない、まったくの偶然の接続から生まれるケースが多いと思います。

 

この世が夢の世界で、まったく脈絡のない「 物語 」ならばあり得るかもしれませんが、AIをはじめ客観的データーによって判断する世界では、人間のための発明は大変困難であると思います。

 

「 必要は発明の母 」と言いますように、必要とは人間にとってであり、人間にとって不便なことを解消するのが発明であるとしたら、人間でないあるいは人間の心情や「 気持ち 」が理解できないAIが発明をするとは、何を発明するのでしょうか?

 

人間全体に都合の悪いものも、AIを操る人に都合がよいなら、「 発明 」になってしまうでしょう。

 

その意味で、AIは従来の「 発明 」が出来ないのです。

 

「 発明 」を生む「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」という自分の可能性なのだろうと思います。

 

 

「 感動 」が伝わるのに「 言葉 」は必要でなく、『言葉に出来ない事象こそ、それが「 無常 」のなかで「 常なるもの 」であり、必然性であり、宇宙の真理は不明だということが、生命エネルギーの中で「 真理であり常なるもの 」である』と思います。

 

 

言葉で表現した短歌や詩は、感動を伝え終わるとその使命を果たし、そこには当時の意味しか無い抜け殻となって消えてゆくでしょう。

 

意識から無意識、派生したものから流れるものに形を変えたのだと思います。

 

そのようにして得たのが能力であり、「 気 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 考えるな、自分で考えろ 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻は自分の手で処分しなければなりません。


なぜなら、その抜け殻が一人歩きをして、本来とは違う価値観を産んで、自分を苦しめることになるかも知れないのです。

 

自然エネルギーを自分の「 極 」に従って変えることが「 工夫 」で、自然界にも人間界にも通用するのではないかと思います。

 

自然界では、自分に対立するものを同じ方向にするのが「 発明 」でしょうし、都合の良いものを悪い方向にするのは「 反省 」でしょう。

 

人間界で、自分の「 極 」と同じ方向で、協力する関係では「 規律 」でしょうし、その反対に自分の「 極 」の方向と逆の対立関係では、「 格闘術 」として現れるでしょう。

 

目的とする格闘術が、自分の中で無意識の可能性という能力になった時、月(目標)を指していた師匠の指の姿は消えるでしょう。

 

AIの目には、指している師匠の指だけが見えるかも知れません。

 

 

 

 

 


第三章 将棋と格闘技

さて、第二章の格闘技と将棋とはどんな関係でしょうか?

 

棋士は将棋の駒を使って対局します。


車でのドライビングレースのようなものですが、車である駒は一定の動きしか出来ず、しかも相手も同じ条件ですので、「 ゴーカート 」のレースの様だけど、走行する方向が真逆で衝突するゲームだと思っています。

 

競うのはドライビンググテクニックですが、走行する方向は真逆で同一の場で衝突するのですが、どのようなルートを使って衝突し相手を倒す(将棋では王を詰ます)ルートは対戦する個人の自由で、相手の駒を獲得すれば、それを同じ動き(働き)で使うことができるというルールです。

 

対局次第で持ち時間が決められていて、駒も同じ動きをして、それを交互に動かすのですが、同一の場所で同一の動きをした駒を使って、長時間、考えることが出来る。

 

これが、「 格闘技 」でしょうか?

 

私は「 格闘技 」と共通するところを感じますので、やはり「 格闘技 」だと思います。


以下、その理由です。

 

 

     

何を感じるかについては、1、で述べたように、相手の「 気 」(エネルギー)を感じることになります。


将棋の対局相手は人間ですから、2-3、で述べたとうに「 価値観 」を持っています。


対局相手は自分の王将を詰ませるのが目的ですから、人生の「 生死 」というより「勝つための戦略や戦術の良し悪し」に伴う「 強気 」や「 弱気 」など、相手の指し手から感じられると思います。

 

第一章で述べた「 雰囲気 」のようなもので、相手の「 気持ち 」が無意識となって、その人の身体から漏れ出るのです。

 

 

駒そのものの力は自分の駒と同じですが、駒の動きや構えの変化は、ちょうど自然エネルギーが形を変えるように、相手のエネルギーを感じられるでしょうし、対局の棋譜は自然事象と同じく「 逆戻り 」はしません。

 

感じるためには、自分の技量を高める、いいかえると、自分の運動可能性を高めておく必要があると思います。

 

それは、武術と同じで、自分の技量が高ければ、構えを見ただけで、自分の技量を上回っているか否かとか、勝負の結果がわかるでしょう。

 

その結果、剣道で「 間合い 」と言うように、技量に合わせて間を空けたり、間を詰めたりするのではないでしょうか?


気を感じたら、その裏に潜む戦術や戦略を知り時間と空間を伴って現れる「 次の手 」を想像することが出来るでしょう。

 

 

 

1、 の自分の可能性という能力については、日頃の、コンピューターや仲間を相手にした対局で、自分が対局相手にどんな戦略や戦術が有効かを、現実に将棋の駒や将棋盤の上で試すことが必要でしょう。

 

もっとも、頭脳の中に将棋盤や駒があるそうですから、想像で足りるのかも知れません。

 

これは、武術でいう稽古と同じだろうと思いますが、武術が人体の動きを研究(因果関係を追求)するなら、将棋は駒を状況に応じてどのように使うかを研究(因果関係を追求)するでしょうし、それは、車でいう速度を体感することであり、それによって自分に何が足りずに負けたのかという自分の可能性を(能力を)反省し、新たなる可能性へと自分を高めることになると思います。

 

ブルースリーが、彼の指を見ずに、それが指し示すものを見よというのは、彼の技は、彼が持つエネルギーの発露であり、2-1、で書きました「 彼の運動可能性という能力 」(乗り物なら或る車の性能)の発露であり、稽古する者の運動可能性という能力ではないのですから、彼の動きをすることは不可能なのです。

 

指し示すものが、相手を倒す戦術であるならば、稽古する者自身が彼の指し示す戦術で戦えるように、自分の可能性を高めることが肝要であり、それが「 栄光をつかむ 」ことになる、つまり相手を倒すことが出来ると教えたものだと考えます。

 

 

 

     

 

2、 の価値観ですが、プロ棋士になることは、将棋に勝つことにより賞金を獲得し、妻子を養うことを決意することですから、プロ棋士は全て、同じ方向の価値観を持っていると思います。

 

同じ「 極 」を持っていると思いますが、宇宙の惑星が「 極 」を持っているとしても、その「 極 」から発生する重力や磁場が違うように、棋士の一人一人が同じ強さの価値観を生じる「 極 」を持っているかどうかは不明です。

 

生死という「 極 」は同じでしょうが、出生の環境や生まれた時代の文化水準とか師匠から受けた教育の度合いにより、その「 極 」の強さも違い、それから生じる価値観も違うのだろうと思います。

 

 

武道に「 自然体 」というのがありますが、自然は「 極 」を持たず、つまり価値観がなく、「 気というエネルギー 」が形から形へと変わるのですから、それに応じた「 価値観を使わない状態 」が「 自然体 」ではないでしょうか。

 

 

自然は無敵です。

 

敵や味方は人間の「 極 」が作るのであり、自然は敵も味方も、人類として包摂してしまうから無敵ではないでしょうか。

 

 

藤井聡太七段(2016年9月3日にプロ四段デビューし2018518日に七段になった)が「 平常心 」や「 最善手を打つ 」という態度で対局に臨むのは、ある意味で無敵だと思います(彼は、将棋には必ず「 最善手 」があるから好きだと言います)。

 

相手の「 極 」を読むことは、価値観を読むことであり、相手の戦術を読むことになるだろうと思います。

 

 

それは、自分の価値観を一旦は使わず、勝ちとか負けるとかいう「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見ることが、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

 

将棋盤上の駒組、つまり形を見て、目には見えない「 気(エネルギー)」が「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるだろうところの形を見る、つまり「 先を読む 」いいかえれば、駒の必然の動きを知ることは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することと同じだと思います。


いわば、「 直感 」することです。

 

事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーでは、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、「 必然 」と「 最善手 」は同じと私は考えます。

 

その能力があれば、必然の流れの全体が見えていることですから、現時点の駒組の形の急所や、相手の王将が詰むあるいは詰まないかを瞬時に見抜ける能力となって現れるでしょう。

 

対局終了後、感想戦でこれまでの軌跡を振り返って将来に生かすのですが、その場で、その能力がある人は、詳しく「 読み 」を披露するでしょう。

 

「 気(エネルギー) 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

 

 

    AIとの闘い

 

上記のような能力を持つ人が指した手に対して、発明に驚く人のように、対局相手は感想戦で、従来の手順にはない、まったくの偶然の一手(偶然の接続)で負けたと思うでしょう。

 

ところが、指した本人は「 最善手 」を指しただけで、相手にとって、それが偶然の一手と感じるのは、相手が「 最善手 」、つまり「 事象が持つ必然の流れ 」を知らないからだと思います

 

社会は、AIをはじめ客観的データーの積み重ねによる必然の一手はあるでしょうが、「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」だと思いますが、AIにはこれが無く、AIが導く必然の一手は客観データーから導かれたもので、その場の相手の対応によって自分が最善手を指すための「 勝負手 」が打てません。

 

「 勝負手 」というのは、自分が敗戦濃厚なとき、対局相手を惑わせるような「 手 」を指し、相手の対応次第では自分に勝ち目が回ってくるときの指し方だと思います。

 

勝負の行方を、相手に委ねるのです。

 

いわば、駆け引きにより自分の勝利へ導く「 格闘術 」であり、藤井聡太七段が、十五歳にして「 勝負師 」といわれるのは、この格闘術が優れているのかも知れません。

 

AIは、相手に勝負の行方を委ねるなど、恐ろしいことは出来ず、常に自分が相手をリードしようとすると思います。

 

「 感動 」を表現する短歌や詩の言葉は感動を伝え終わるとその使命を果たした抜け殻となり、消えてゆくように、「 客観データー 」も、込められた「 工夫 」や「 智慧 」が他人の無意識の能力になれば、消えていくべきなのです。(つまり忘れられる)

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 書を捨てよ、自分で考えよう 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻である「 客観データー 」を自分の手で処分しなければならないと前述しましたが、AIは「 客観データー 」である棋譜を捨てるどころか、「 工夫 」や「 智慧 」を欠いた抜け殻同士を戦い合わせて(人間を信用せず)、「 勝負手 」の無い、正当な戦略を考えるでしょうが、AIは「 生死 」など「 極 」を無視した最善手を考えますから、死の状態から生の状態への発想の転換、あるいは「 発明 」ともいうべき「 工夫 」はなく、それは棋士に任せられることになります。

 

個人的、主観的な「 工夫 」や「 智慧 」が、一般的、客観的「 知識 」として、AIの中に蓄えられて、「 偶然の接続 」になるのであって、AIは、先が見えないので「 偶然の接続 」になったのは、人間の場合とは真逆で、過去のデーターから導いた「 最善手 」であることが、人間とAIの違いでありAIに未来を託すのは、上記のことを知らず、未来を背負って立つ子供を教育することもしない、人間不信の無能な連中がすることだと思います。

 

今後、AIが一番強いことになるかも知れませんが、人間にはAIが出来ない「 工夫 」する能力を持っていますから、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないと思います。

 

この「 工夫 」や「 智慧 」は、論理が途絶え、もがいて生存可能な運動余地を探すとき(例えば、もう少しで自分の王将が詰まされる、結果負けるとき)に生じますから、それらは、論理が及ばない自然事象の中にあり、空間や感覚も司るという右脳の働きにより獲得されると私は考えています。

 

感覚を研ぎ澄まして事象から得たものは、論理と論理を繋ぎ合わせる空間(場所)の中で、行為の「 工夫 」や身体を使う「 智慧 」で論理と論理を結んだ「 運動可能性 」(行為してみて可能だった、不可能だった)であり、直感や感覚を通して得られますが、それらは右脳を通して無意識の身体の運動可能性という流れる能力になると思います。

 

元来、流れるものだから、言葉や絵画により人から人に「 工夫 」や「 智慧 」が伝わった後、言葉を抜け殻として左脳に残して、右脳の「 運動可能性 」という身体の空間意識の無意識の能力に溶け込むのかも知れません。

 

この無意識の能力を身に付ければ臨機応変に対応出来ますので勝利に導くことは、将棋にも武道にも共通すると思います。

 

何故なら、無意識である能力となった可能性は空間意識ですから、「自分の体 」という空間意識を超えて、外部の漏れ出し、自分と事象との「 隙 」を埋めるまで広がり、事象の動きと同時に攻撃することも自分の可能性の中に包摂するからです。

 

自分の運動可能性が、自然事象の生起する空間まで広がるからです。

 

 

 

 

 

「 時間 」ですが、対局によっては長時間の「 持ち時間 」があり、長考する棋士もいます。

 

持ち時間が短い早指し戦ならば格闘技に似ていますが、持ち時間が長時間であるケースが「 格闘技 」と言えるか?ですが、私が電子書籍で書いた時間は「 物語 」を論理的に構成するために脳が作りだしたものとしますので、長考する人は、時間をかけて「 最善手 」を見出そうとする人でしょう。

 

しかし、事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーの変化は、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、それは同じと私は考えますが、長時間を費やせば可能かどうかは不明です。

 

人類が誕生して長時間は過ぎましたが、必ずしも「 必然 」を認識したと限らないように、人生経験が長くても、持ち時間が長時間でも、必然を知って勝つとは限りません。

 

指す手の良し悪しや負ける心配などの「 意識を生む 」時間は、一挙に全体を把握することについては邪魔者であり、先を見る(事象の必然流れを知る)ことが出来る人は一瞬で頭の中に全体像が浮かぶでしょうし、理解できない人は、長時間かけても出来ないでしょう。

 

その領域は、左脳の論理の中ではなく、右脳の空間意識であるからだと思います。

 

AIは「 時間 」ではなく「 処理速度 」ですから、人間より早い処理速度で「 最善手 」を発見するように作られているため、その能力に長けたAIが人間を凌駕しているのは当然だと思います。

 

しかし、その基本データーは、先人たちが築き上げた「 工夫 」や「 智慧 」の上に立つ「 最善手 」としてまだ論理の領域にあるため現在にも通用すると思いますが、将来、先人の空間意識(運動可能な余地)を上回る人間が出現すれば、その人が指す駒の動きは、AIには無い、自在のドライビィングテクニックとして現れ、AIを凌駕することもあるかも知れません。

 

何事も「 色即是空、空即是色 」で、「 万物は流転する」のです。

 

データーを積分してAIが認識する頃に、エネルギーは既に変化していて、エネルギーの化身である人間も「 工夫 」や「 智慧 」が変化しており、AIが負けることが可能になるかも知れません。

 

ですから、「 考えるな、感じろ 」といいますが、それは「 極 」を持つ対人関係は、そう言えるかもしれませんが、「 極 」を持たないAIを相手にするとき、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないし、工夫しなければAIに永遠に勝てないことになるのではないか?

 

常に考えて「 工夫 」しながら格闘術を磨かなくてはならないから、「 将棋は頭脳の格闘技 」と言われるのではないかと、素人の私は思っています。

 

 

以上が、「 将棋は頭脳の格闘技だ 」とする理由です。


kandk55
作家:高口克則
将棋は格闘技
0
  • 0円
  • ダウンロード

1 / 4

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント