源空と親鸞

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1 粟散和州の釈尊

 宗教現象を、大きな眼でとらえると、一種の歴史的循環運動が見受けられる。宗教には、ある一般的な法則があるかもしれない。
 まずカリスマを備えた偉大な教祖が出世する。クリスト、釈尊、ムハンマドといった人たちである。この人たちは共通して精緻な教学を拒否する。本を書かないところも同じである。佛陀にしろイエズスにしろムハンマドにしろ、高度な哲学理論はなかった。彼らは一冊の本も書かなかった。あるいは人は当時紙がなかったせいと考えるかもしれないが、釈尊の時代すでに文字と、紙に代わる貝葉という被筆記手段があった。だが釈尊を始めその弟子たちは生きた音声を師資相承することに精進し、文字化をあえて避けたのである。 このように偉大な開祖は教学を造らず文字による録文化をしない。強い実践の意志がかれら偉大な開祖たちに共通している。かれら開祖の理論は稚拙であり、むしろ知識の高度化を拒否する。
 そうして既成政治権力と既成宗教教団にとって、かれらは実に怖い批判勢力、抵抗勢力であるから、有形無形の圧迫を加える。教祖たちは大なり小なり法難を受ける。
 しかしやがて時を経、その教団が社会的にある程度の地位を占めると、教学が興起する。教義を宣揚し、教線を拡大するため、また他教との相論のため教学を必要とする。教学は録文メディアに文字記号で示される。開祖の後継者たちは、自分たちの正当性を証明するために、教祖の説法を精緻な教学として構築する。高度に精緻化するほど、学問のための学問のためになっていき、宗教としてのいのちを喪う。哲学好きの人、思索好きな人はいつの時代でもいるものである。そんな嗜好の人々が教団に蝟集する。
 こうして記された当時の生き生きとした宗教的生命を、やがて後世の教義学者は喪ってしまう。開祖の教学書の一字一句を金科玉条と祀り上げ、ご飯の種にする。そうすれば世間的にも威信を保持できるとかれらが打算するようになる。教団で金と地位を得ているかれらが既得権益維持のために、さかんに護法護教を喧伝する。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と庶民が喝破するとおりたんなる我欲の張り合いに堕落してしまう。その頃はすでに現今体制を維持するための御用教学に成り果てている。宗教現象についてエリアス・カネッティ『群衆と権力』(法政大学出版)にすばらしい研究がある。ぜひ読んでほしい。 
 教祖と聖弟子の時代は宗教的生命が横溢し、粗な教学のみの正法時代。教学構築時代は像法の時代、その後の教学書のみ残る時代は末法。これが著者が措定する末法史観である。
 そうして末法の悪弊があまりににひどくなると、教団内外から「教祖に帰れ」を合言葉に改革運動がおきる。その中から新たにカリスマを帯びた偉大な教祖が現われる。こうして宗教現象はサムサーラ(輪廻)する。宗教運動は、なべてそのくりかしであるといえよう。
 釈尊と直弟子のころの僧伽(佛教教団)は、教学は粗末だったかもしれないが清新な宗教性に満ちていた。だがその後、分派が興り、各派は精緻にして煩雑な教学構築に励むようになる。するとそれへの反撥から大乗佛教運動が興隆した。初期大乗の経典は般若経典にしろ、法華にしろ、浄土経典にしろ、豊穣にして芳情な宗教性にあふれている。そのかわり文学的で論理性は弱い。法華経なぞ文量としては長くない經だが、いったい何をいわんとするのか甚だ解りにくい。解らないので現代の人びとは古代中国の偉大な僧、天台山智者大師の解釈を通して法華を読んでいる。おそらく「原法華」と名づけるべき短い経文に附加補強を繰り返し、膨れあがって現型の法華経二十八巻に成ったのであろう。そのため前後脈絡なく突飛な話がつづく。論理の流れが粗雑である。けれどもそこには法華に魅かれるともう二度と逃れ得ぬほど強烈な宗教性がある。(一)
「大般涅槃経」「勝鬘経」など中期以降の大乗経典は、非常に緻密に論理的になり、お経というより、むしろ論文に近いものになる。その分、宗教性は初期大乗経典より薄らぐ。涅槃経や瑜伽唯識など中期以降の大乗は、初期大乗の思想より明らかに深化している。けれどもそれらは学派として涅槃宗や法相宗を成立させはしたものの、宗教教団には成りえなかった。だから北伝佛教中で現在も活動している佛教各宗派が所依の経典とするものは、初期大乗のものである。
 教祖たりうる人の條件は、教学を拒否することと、そのために教説の文字化を拒むことである。もうひとつ大事なこととして無師独悟がある。直接の先生に依拠せず自ら真実を見つけだすこと。クリストもムハンマドも、教学なく、著作なく、人間の師匠なく、直に神と結びついていた。釋尊もまた一冊の著書もない。先生もいない。直接ダンマ(法)と知遇した。
 親鸞はじぶんが暮らす島(日本国)を粟散和州といった。粟の粒を散らしたほどの小さな世界というほどの意味である。その粟散和州にて、右の三条件を満たす者は親鸞の師、法然房源空ただひとりである。かれの名前について説明をしよう。いっぱんに法然と呼んでいるが、僧としての正式の名は源空である。むかしの僧侶はお寺の中に住まなかった。寺の外の房とよばれる室で起居した。ちょうど今のお寺で住職が本堂外の庫裏に住むようなものだ。そこで当時の人たちは、通常は正式の名を使用せず、互いに住んでいる房の名称を使い、〇〇房と呼びあった。源空は法然という房にいたのであろう。僧侶を「おぼうさん」と呼ぶ慣習はここからきている。
 法然は『選択本願念佛集』を遺したが、躊躇した末に、語り下ろしの形にした。その本の表現は簡潔すぎるほど簡潔である。法然に教学らしきものはあるが、隙だらけである。
 法然にあるのは唯だ念佛。これのみ。還愚念佛これひとつ。
 法然には生身の先生がいなかった。六百年前の善導の著作をつうじて直接阿彌陀の本願を悟った。法然は「自分は本の題名を見るだけでその本の価値がわかる」といったそうだ。それからまた、人に習うのは易しいが得るところが尠ない。自ら「はじめてみたつる」ことが大切だと述べた。真に独創的な人は、人に教えられずとも真実を見出し到達するものである。
 もちろん独創の背後には本人も忘却している長年のしらずしらずの学習がある。こういうことを佛教の有相唯識理論は阿頼耶識聞薰習という。転依という。廻転という。
 法然が遇った阿弥陀佛の本願は、釈尊が遇った縁起の法と同じい。言葉は月を指す指であって、指している当体は等しい。法然坊源空は粟散和国の釈尊である。
 およそ宗教経験なるものは言語を超越している。言葉で著わせない。思うこと、議論することができぬ。
 但し、言葉で表わさなければ他人に通じないし、宗教として究竟しない。一人で悟り澄ます者は独覚と貶される。いったん絶対否定の宗教経験をくぐり、相対差別の日営語の世界に戻らなければ真に宗教ではない。いまいったん、世俗世界の時間表現をとったが、佛教における時は過去未来をそのうちに含む永遠の現在であり、時剋極促の今であり、実存在を離れて時間はない。自性として時間なる実体はない。ぼくたちは一定の時間が流れるなかに万物が生居死去すると思っているが、それは妄想である。客観的時間というものはない。過去未来現在の三世は現今のこの一刹那に在る。『正法眼藏』に有時と説かれるとおりである。
 時は有であって、有を離れた時はない。絶対否定の宗教経験と、絶対肯定の世俗還帰は即の同時なのである。それは否定即肯定であり、否定に非ざる否定、肯定に非ざる肯定である。空や縁起を、相依る関係性というけれど、単なる関係性なら佛教のはなしでない。世間噺である。それなら空をさとらなくても論理を詰めていけば分かる。だから学者は相依の話を好む。佛教を知っているふりができるからである。たがいに互いを真っ向から否定するものどうしが、絶対矛盾的に成り立って相依している事実を空といい、縁起というのである。諸法実相とよぶのである。
 言葉にできないことを何とか言語化するために宗教は表現に苦心する。譬喩表現・神話表現、禪問答のように世俗論理ではまるきりナンセンスな表現をとる。
 佛教の基本は無我説である。無我とは我がないことである。釈迦は我(アートマン)がない真実を悟って覚者となった。釈迦佛陀となった。釈尊は人びとを桎梏している神々を風呂敷に包んで棄ててしまった。インドの偉大な詩人タゴールが釈迦を讃えてこう語った。

 釈尊は人間を偉大なものとなさった。カーストをお認めにならなかった。犠牲という儀礼から人間を解放なさったし、神を人間の具縛から外してしまわれた。釈尊は人間自身の中にある力を明らかになさり、恩恵とか幸福といったものを天から求めようとせず、人間の内側から引き出そうとなさった。人間の内にある智慧、力、熱意といったものを釈尊は大いに賛美なさり、人間とは惨めな、運命に左右される、つまらぬ存在ではないと宣言なさった。
 『さとりとすくい』小川一乗(春秋社、二〇〇三)より子引き

 われわれは無い我(アートマン)を有ると思い込んで、それに執着し苦しみの元を自ら製造している。しかし我はもともとないのである。事実として我はない。世界全体に我はない。もとより我がない真実を智る。それと同時に我は私たちの煩悩のかたちで仮にあるから、わたしたちは現にある我への執着を滅してゆかねばならぬ。もともと無我であることと、無我(つまり存在しない)であるのに我を滅していく。これは絶対矛盾である。無我とは絶対矛盾である。その無我を体認し涅槃に入る。これについて無我、縁起、空、無自性、唯識、阿彌陀、諸法実相その他さまざまの名を須いて表現する。言語こそ違えどそのあらわさんとするところは同一である。万国の祖師方は言葉にできぬことを言語化しようと苦心惨憺してきたのである。
 それは「無上」は「最上」と違う事実を知る智慧を獲ることである。「最上」はあっちとこっちと相手がある。「最上」は二元的対象的単純対立を前提としたうえで、なにかと比較して、上か下かと較べるので差別性を免れない。
「無上」は比較などを超越してただそれのみで優れている。無上は対象がない。無縁である。一流は二流や三流と比べての一流ではない。比較心を超えている。上がないとは下もないということである。平等無差別。それは阿弥陀経の倶会一処である。
 それは暁烏敏の次の譬喩歌にみごとにあらわされている。

十億の人に十億の母あらんも
吾が母にまさる母ありなんや

 甲君のおかあさんが乙君のお母さんと比べてまさるわけではないのだ。僕の母は偉いが君の母はつまらぬとそういうのではない。甲君のおかあさんも乙君のお母さんも同時に等しくまさっている。十億の母すべてそれぞれまさっている。これが無上である。最上ではない。釈尊が誕生時に「天上天下唯我独尊」と叫んだと伝う。これが無上である。釈尊はほかの誰かと比較してオレ一人だけ偉いぞと威張っているわけではないのだ。わたしたちが住んでいるこの比較差別の世界では、勝る人の陰に劣る人が必ずいる。しかし平等無差別の法界は十億百億の人全員がまさっている。これは人智を越え事態である。だから不思議である。不可思議である。無上は平等無差別の世界。最上は比較差別の世界。
 平等無差別の世界(法界)に触れ、比較差別のこの世界を礙り無く生きてゆく。空を観、かつ空に滞留せず、互いに相依り相扶けあって生きてゆく。世の中をよりよくするために、人々の苦しみをよりらすために精進してゆく。華厳宗の事事無礙法界とはこのことである。
 ただしこの法界の実現を此土にて望むことは不可能と深く信じ、それをあきらかに見ねばならない。事事無礙法界観は悪しき本覚思想と紙一重であって、非常に危険な思想でもある。本覚思想とは、現実このままが理想の世界であって、変える必要もなく、何も変えるべきでないと説くのものである。
 宗教の深い悟りの世界は本覚の思想に近いのであるが、私を含む世間のほとんどの人々はこの世界観を曲解する。すると世俗政治権力がこれを悪利用することとなり、現実の差別も戦争も貧困もこの通りで良いのだ。必要悪なのだと肯定し、宗教が人びとを欺く恐ろしい悪魔の道具に成り下がるのである。それは右に揚げた暁烏敏師が一片の私情もない真摯な念佛者でありながら、同時に戦争を肯定し、同胞を戦場に駆り立て幾百万の有情の命を殺さしめた事実を見れば明らかである。暁烏は戦争犯罪者でもあった。
 鈴木大拙にしても結果として形式的消極的に戦争協力したわけである。大拙は軍部やそれに阿諛追従する輩を苦々しく思っていた。アメリカ文明の巨大な技術力工業力、そしてアメリカ人たちの合理主義精神をよく知っている大拙は対米戦争に全然勝ち目がないことを知っていた。大拙の主著は題を『日本的霊性』という。霊性などという誤解されそうな言葉をあえて使ったのは、軍とそれに阿諛追従する輩が好んで使う「精神」という単語を避けたいためであった。また彼は、宗教権威と世俗権力の結合の恐ろしさをよく識っていた。事事無礙法界観が危険思想になりかねないことも解っていた。それらは大拙の戦前戦中の論文を見て明らかである。しかしその鈴木大拙にしてさえ道を謬ったとは、その理由はひとえに此土にて理想界の実現を夢見たからである。右の暁烏敏の歌にしても、やっぱりわれわれはどうしても他人の親と吾が親を比較して「わが母にまさる母なし」と考えたがるものだ。平等にみんな素晴らしいとは思えないものだ。音楽グループSMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」が「ナンバーワンにならなくてもいいもとともと特別なオンリーワン♪」と歌う。
 この曲はたしかに力がある。わかりやすく受け入れ易い。伝統佛教の布教の現場でも、この歌をさとりの世界の喩えとしてよくひくときいた。けれどもわたしは古往今来まれにみる不快な歌だとおもった。現実問題として念佛も聞法もしないのにこの曲を聴いてなにかにぱっと気づいている人びとがたくさんいる。なんの修行もしなくても歌を聴けばわかるとするとサトリとはそんなにたやすいのだろうか。わたくしにはどうにも不愉快、聴くに耐えない曲なのだ。このねっとりする不快さはなんだろう。
 あるとき新聞でインチキな現状を若者に耐えさせる支配者側の御都合主義の歌だと論じる記事を見た。そこで「オンリーワン」の英語の用例を調べた。
John lennon の imagineは、
You may say I am a dreamer, But I am not the only one.
 僕を夢想家だといってもいいよ、でも僕はひとりぼっち (only one)じゃないとうたう。ここから類推すると only one は isolated に近い意味なのだろう。この曲の作詞者は英語に堪能だそうだが、英語力に関してだけはイギリス人のジョン・レノンを信用したい。

 次に本覚思想について佛教辞典による定義を提示する。中村元博士監修『新佛教辞典』誠信書房から引用。四八五頁。

[本覚〕迷いを次第にやぶって、佛になるのを始覚というのに対し、心の本性は、本来、さとりの性をそなえているというところから本覚という。大乘起信論では、さとらない (不覚)から、はじめてさとる(始覚)ということがいわるのであり、内に、本来、さとりの性をそなえている(本覚)から、はじめてさとる(始覚)ということがいえると論じ、不覚始覚本覚の相関が説かれた。しかし後に、本覚を特にとりだして強調し、佛になるには、本来、内にそなわるさとりの性を直観すればよく、本来、佛であることを知ればよいとして、佛になるための修行の無用を説くにいたり、極端になると、すべてが本覚のあらわれとして、そのまま肯定し、はては、堕落の思想となった。真言宗や日本天台宗の本覚法門に、この傾向が見られる。

 日本文化に育った人は本覚思想に弱い。本覚は日本人の琴線にふれる。いわゆる無常感(もののあはれ)は、センチメンタルな本覚思想といいえよう。印度伝来の正統仏教では無常観という。世間の無常を観想する修行である。無常観と無常感は漢字一文字違うだけだが意味がおおきく離れている。いわばドライとウェットの違い。無常観はもともと諸行無常を識るための佛道修行のひとつである。
 本覚思想が日本文化に育った人を魅惑する程度は、知識人と無知の庶民、または中世人と現代人との間に差はとくにない。日中、大学でしかつめらしくカント哲学を講ずる謹厳な教授が、夜間は自宅の湯舟にて艶歌をうなって淘然するがごとし。
 そのように、とかく日本文化に育ったは「ありのまま」に弱いのである。お寺にいくと「そのままでよい」「その身そのままでおたすけなのです」と説教を聞く。これほどつれない言葉はない。この身このままでいいことは、わかっている。わかっているけれど、そのままでいられないからぼくらは道を求めるわけである。ありまままに安住できれば求道はいらない。だから「ありのままでいい」ほど難問もなく、途方に暮れる言葉もない。
 本覚思想の危険さは、抑圧と差別を正当化させる原理となりうることにある。不当に差別されている現実そのままサトリである。抑圧体制そのままおサトリである。強者はそのまま。弱者もそのまま。身体障碍者の異常に安い賃金もそのままサトリ。不当な現実そのままサトリである。
 こうなると、本覚思想とは、釈尊の佛教から大きくそれて、体制教学、御用教学というほかない。マルキストが宗教を民衆の阿片と定義するとおりだ。
「日本の作家は、歳をとるとたいてい宗教に行ってしまう」
 そんな不満をときに聴く。ここに嘆かれているのは、老いて涙腺がゆるくなると、日本人の心情にふれやすい本覚の世界に戻る人が多いことだろう。山の彼方か黄泉の国か草葉の蔭の蟷螂かしらないが、かつてお送りした懐かしい肉親のおわせし彼方へ戻りたい。融けあいたい。それが自分の本来の世界なのだ。そう思いたい気持ちは私もわかる。反俗精神や正義感といった若さを喪う。すると本覚に戻りたがる。でもそれは悪い道でもあるのだ。釈尊の仏教は、ほんらい、苛烈なまでの批判精神なのだから。岩波文庫版『ブッダの言葉』(33から35頁)からいくつか引こう。この本の翻訳元の経典は現存するもっとも古い佛教経典で、歴史上北インドに実在したシャカムニ・ブッダの肉声に近いと多くの学者が推定している。

怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、かれを賤しい人であると知れ。
この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、かれを賤しい人であると知れ。
村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、かれを賤しい人であると知れ。
自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、 かれを賤しい人であると知れ。
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しいものともなり、行為によってバラモンともなる。

 本覚思想は、佛教哲学としては、おそらく最高に達したものであろう。理論的には佛教の窮理は本覚思想に言い尽くされている。道元や親鸞の言葉が本覚思想のそれと瓜二つなのももっともなことだ。本覚思想は、哲学としては、まったく、佛教そのものなのだから。問題なのはそれが高度な哲学ではあるけれど宗教でないことである。



 さきに揚げたスマップの歌「世界に一つだけの花」は、おそらくはセンチメンタルな本覚思想を歌っているのだ。たまらない不快さと、それにもかかわらず強い吸引力がこの歌にあるのは、きっとそれだ。けだし思うに宗教者が法話にこの歌を利用するのは間違っている。危険だと著者は考える。
 佛教が理想とする、無量の衆生が仏の正道に於て各々安立すること、すなわち万人平等成佛は、あくまで彼土において超証するものととらえるべきである。比土における理想社会実現は夢として、出来ないと諦らかにみるべきである。本覚思想を峻拒すべきである。そうすれば虚妄なる世俗権力が人民抑圧のため介入する間隙が無くなる。事事無礙法界の実現は此土においては夢幻だとあきらかにみる。なおかつ同時にその理想に一歩でも近づくべく私たちは努力を怠らないことが大切なのだ。実現できない理想に向かってたゆまず精進することが大切なのだ。それは釈尊が臨終時に言った「諸行は無常である。だから怠ることなく努力しなさい」の遺言にそっくりつながる生き方である。同じことを大乘仏教は「煩悩を断たずして涅槃をうる」という。また浄土仏教では「往生」という。この世で往生浄土の生活をなし臨終捨命の一念のとき佛陀になると源空親鸞は説くのである。
 
(一)その意味で法華は仏教には珍しくファナティックな経である。仏の教えは人々の情を煽らない。仏の教は人を醒ますのである。酔いから覚ますのである。それが他教と仏教とのもっとも大な違いである。ところが法華経は人を熱くする。酔わせ興奮させ独善的排他的選良主義者にする作用もある。最澄日蓮その他の人々生き様を見ると分る。法華は此経独善性と攝多圓満性とが絶妙に両立しておりそこが「妙」法華経なのである。しかし読人はとかく攝他より排他に傾き易い。法華を承ける北伝大般涅槃經にもまた「武器を取って佛敵と闘え」と聖戦を説く箇所がある。それは佛教からの逸脱である。佛道の行者が異教徒の弾圧に遭遇した時はまず言語で攻撃をやめてくれるよう説得し、受け入れられない場合は逃げるのである。それさえかなわない際は改宗に応じて可い。それもご縁だからである。佛教徒はあくまで戦わない。自他平等の生命を大切にする。迫害者の命と被迫害者の命は平等に尊い。戦わないで逃げる故に佛教は世界三大宗教といわれる割には、歴史上幾度も他の宗教に負け伝播地域を狭くした。しかしそれこそが佛教の本当の鋼さなのである。叩かれても叩かれても佛の教道はそれを求道する人たちの胸に自然(ジネン)に透み透り伝播して行く。佛教が発祥の地インド亜大陸から南と北へ伝わって東端の日本列島で伝播がいったん止まった。二十世紀以降、佛法がふたたび盛んに東へ伝わり、今や佛法が南北アメリカ大陸とヨーロッパで生きている。このように法灯は法爾自然に跡絶えないのである。ただし、だからといってイスラームやキリスト教やその他の宗教を蔑んではいけない。「あれ」と「これ」をまず二項的に対立させてわが仏教こそ優れたりとするのはこれもまた佛教本来の逸脱である。二元的対立を自ら超え出て人にも超え出させることこそ佛道の目的なのだから。
 北伝大般涅槃經はその論調に佛教教団批判の傾向が強い。僧侶の堕落現状を批判し外敵の脅威を説く。大般涅槃經は僧侶の肉食を極めて強く禁止する。この経が東アジアで強い影響力をもったためこの地域の僧の肉食が禁忌となった。釈迦自身は肉食を禁止しなかった。なぜなら食べ物は生きものの命であり、植物も動物もその命の価値は平等だから。釈迦とその弟子たちのために殺した動物の肉の布施は受けなかっただけである。それはともかく、涅槃経がつくられた時代は大乗佛教運動が初期の清新さを失い、堕落を始めていたころである。そこで厳しく既成教団批判をする必要があったのだろう。
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金井隆久
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