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源空と親鸞

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宗教現象を、大きな眼でとらえると、一種の歴史的循環運動が見られます。
まずカリスマを備えた偉大な教祖が出現します。クリスト、釈尊、ムハンマドといった人たちです。この人たちは共通して精緻な教学を拒否します。本を書かないところも同じです。教祖とその弟子たちは生きた音声を師資相承することに努力し、文字化をあえて避けます。このように偉大な開祖は教学を造らず文字化しないのです。
しかしやがて時を経て、その教団が社会的にある程度の地位を占めると、教学が興起します。教義を宣揚し教線を拡大するため、また他教との相論のため教学を必要とします。教学は紙に文字で示されます。教義を記された当時の生き生きとした宗教的生命を、後世の教義学者はやがて喪ってしまいます。そして伝燈の教学書の一字一句を金科玉条と祀り上げ、ご飯の種にするようになります。そうすれば世間的にも威信を保持できるとかれらが打算します。教団で金と地位を得ているかれらが既得権益維持のために、頻繁に護法護教を呼号するのです。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と庶民が喝破するとおりです。たんなる我欲の張り合いに堕落してしまいます。
そうして末法の悪弊があまりににひどくなると、教団内外から「教祖に帰れ」を合言葉に改革運動がおきます。その中から新たにカリスマを帯びた偉大な教祖が現われる。こうして宗教現象はサムサーラ(輪廻)します。
教祖と聖弟子の時代は宗教的生命横溢し、粗な教学のみの正法の時代。教学構築時代は像法の時代、その後の教学書のみ残る時代が末法。こんな宗教のサムサーラ史観の本です。
 

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