モダンタイムズ

モダンタイムズ200の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
モダンタイムズを購入

第一節 モダンタイムズ

 私たちの体は、内臓や筋肉、それをコントロールする神経やホルモンといった仕組みに外界の状況に合わせてその状態を変化させてゆく自然なシステムが備わっている。それは通常は私たちの意志とは関わりなく自然に働くシステムである。意志によってコントロールできない。
 朝、日の光を感じて目を覚ませば、心臓の拍動は早く、血圧も高まり、爽快な気分とともに全体に活動的な状態になる。反対に日が暮れれば安静な状態になって眠りに就く。暑いときは自然に汗を出して体温を調節する。
 ところが私たちが過度に内面を意識しすぎて、そこに注目の眼差しを向けると、この自然な流れに滞りが起こりいろいろな体調不良を起こす。これが心身症である。心理的な面のみに着目すれば不眠症や自意識過剰といったノイローゼ症ということになる。
「前の机があることは頭では分かっているのだが、実感として本当にあるのかよく分からない」「何だかヨソヨソしくて自分の腕を見ていてもそれが本当にあるのか分からない」
と患者が訴える離人神経症(解離性人格障害)という病いがある。
「自分でしていることなのに自分がしているという実感がない」
「自分が自分でなくなってしまった」
などという人格惑喪失の訴えもよくある。外界の事物、自己の身体などの実在感が喪失してしまう意識の病気である。病因は不明だが、一般に知的レベルが高く、かつ極めて内省力の強い人が罹る。
 様々な症状を起こすこの病気の患者中に共通して見られるのが、度を越した自己観察強迫(いま自分は何をしている何を考えている、ということを同時に自分で意識して観察してしまうこと)であるので、その人の中の自我が分裂をおこして、さまざまな障害を引き起こしてるのではないかと考えられる。離人症患者は自らの身体を含め、あらゆる物体の実在感と善悪などの倫理価値が分からなくなって苦しむ。しかしフシギなことに離人症患者にとって、その苦しんでいる主体、それを「我」と呼ぷならば、その苦しんでいる「我」の実在感だけは決して喪われない。
「存在感の無くなってしまった物体が、それでもそこに確かに存在していることを、自分は確かに知っている」
「自分が馬鹿々々しいことに苦しんでいることを自分で分かっている」
と患者は言う。
 自己観察強迫と並んで離人症患者に共通する特徴である。あらゆる事実の存在感を喪失し、倫理価値の相対化してしまった苦痛(何を基準に生きればいいのか分からなくなる)の中で、その人の「われ」だけは堅固であって、支えのない宙ぶらりの世界の中で居場所の見つからない「われ」だけが不安に満ちて彷徨する。そうした苦痛を離人症者は感じつづける。
 中世以前の人々にはこうした病気がなかった。昔の人は自らの内面を観察する能力が弱かったのでこうした病気には成りようがなかったのである。見る「精神」と見られる「身体」、そして見る自我と見られる自我とが明瞭に分離せず混沌としていたので、そうした病気にはなりようがなかった。
 一般に人間の知的能力とは、物事を「分ける」能力である。混沌とした状況や事物が混沌としたままではその意味はよく分からない。
 急性感染症の原因を、昔の東洋人は、フウジャなるものの人体への侵入だと説明していた。現代の私たちはウイルスなるものの人体への侵入だと思っている。ここで「意味づけ」という点では、大昔のフウジャも現代のウイルスも全く同じであり、ただその説明体系の精粗に天地の差があるのみである。むかしの人はフウジャが物質なのか、はたまた精霊のようななんらかの「はたらき」なのか、理解できなかったであろう。理解できないまま説明を受け入れていただろう。現代の私たちも、医学者生物学者を除いて、ウイルスなるものがなにものなのか理解していない。しないままその説明を受け入れている。(ところで、フウジャを漢字で書くと「風邪」である)。
 人間の知的能力とは、物を分け、それをさらに分け、分けた細片を知恵のよって並べ替えて意味づけていくこと、及び、その説明を用いて、道具を改善し生活が便利なように作り直していくその能力が技術である。
「分ける」という事柄について譬喩として大学を取り上げる。西洋中世の大学には七自由学科と呼ばれる一般教養に相当する学科の上に法律、医学、神学、希哲学の四つの学部しかなかった。しかし、知的作業の急速に活発になった十九世紀に、希哲学から政治学や社会学、心理学や文学・歴史学などいろいろな学問分野が分離独立し、今日ではそれらはさらにさらに細分化していて、その勢いはとどまることを知らぬかのようである。細分化の速度は現代に近づくほど急加速しており、私たちは「分ける」という作業(これは同時に理性とも知性とも言い換えられる)が極端に進んだ時代に生きているのである。「分ける」作業があまりに進みすぎて、それを並べ替えて秩序立てていく人間の智慧が追いつけなくなっている、それが現代だ。
 時代を前に戻して、「分ける」作業がまださほど進んでいなかった中世以前の人々にとり、私たち現代人の見ている世界に比して、世界は混沌として見えていた。私たちは首相であろうと皇帝であろうと、私たちと同じように物欲をもち、喜んだり悩んだりして生きているただの人だということを当然に知っている。彼らが畏れかしこむべきペ何か神秘的な力を持って社会を支配しているから従うのだなどと考える者はいないだろう。
 しかし中世人にとって、この世の秩序とは神の攝理の体現されたものであり、だから秩序を乱すことは全能の神に逆らうにも似たことであった。支配者と支配される者との権力関係、社会の安定を支えているカラクリに人々が気づくことはなかった。
 そのカラクリを見破り、社会の仕組みを根源まで遡って理解する作業が始まったのがルネサンスから近世であった。絶対主義地域国家が成り立っていくのと平行して、いったん、社会を個人のレベルまで戻して「分け」、そこから順序立てて国家の必要性から社会の成り立つさまを考えていく社会契約論の思考を通して、権力関係のカラクリを明晰にはっきりと見抜く、自覚化する作業が進んだ。ロックからルソー、米仏革命を経て今日私たちがあたりまえに思う「王様だろうとただの人」という意識が浸透した。
 さて、それではなぜそうした知的営みが開始されたのか。人間の自然に対する科学的認識が始まったのがその契機である。「分ける」ことが人間の知的行為なのだから、数学を用いて自然を科学的に認識するためにはその前提として、認識する人間がはっきりと自然から区別されて自律した人格を持っていなければならない。「認識される自然と渾然一体となっていたのではこれは上手にできないのである。この自然への科学的認識という行為から、個人として自律した近代人が生まれ、そこから個性の尊重、個人の尊厳という価値意識が育っていく。さらには自律した個人が集合して契約を結んで社会を作るという思想が成立する。
 同じように、自然に対する科学的認識という行為は哲学を認識論へと変えていく。被認識物である自然と、認識する者である自律した人格が分離したからには、その人格が認識した自然はどの程度まで確かか、実際に存在する(であろう)自然と認識した自然は一致しているのか、それともその自然とは、認識した人格の主観の中のみにある自然であって、本当の自然は別の姿をしているのではないか、こうした疑問が出てくるのは当然である。例えばエマヌエル・カントは認識する主体は物それ自体を認識することができないとした。
 ここから近代哲学は人間がどのようにして世界を知りえるのか、そのメカニズムを考えることを主題としていくこととなる。「我思うゆえに我あり。」のテーゼを産み出したデカルトの懐疑は方法的な懐疑であって、デカルトがノイローゼ患者になったがゆえに産み出されたものではない。デカルトがノイローゼ患者であろうとなかろうと、それはさして重要な問題ではない。ただこのデカルトの思策と現代の離人症者の苦しみの間にとても似たものを感じるのである。
 感性的なものを信じない、信じられない傾向。知性偏重、視覚重視。自我と外界の間に観念という見えない疎隔板があって、それが両者を結び合せている点など。つまり、デカルトは世界のすべての存在を私たちが当たり前のことだと信じ込んでいる意味づけの体系からいったん剥ぎ取って相対化させ、宙に浮かせてその意味を失わせ、それでもなお確かに存在する「われ」を発見し、そこから発して世界像を構築し直した。ここに近代科学を支える精神構造が確立し、今日の素晴らしい科学技術の発展の礎が出来た。
 けれども同時にその副作用として精神と身体とが剔然と分割され、見るものと見られるものとに分かれ、難しい心身問題も生じた。
 解離性人格障害の原因は不明だが、知的能力の高い人が何らかの原因により過度に自己の内面を観察し過ぎることにより、体調を維持する自然なシステムの働きを阻害するためだと考えられる。自然扇晰に区別された独立の人格をデカルトが初めて確立し、それが現今のこの豊かな文明を築き上げた原動力だったとすれば、私たちはそ恩恵に浴するのみでなく、その副作用からもなかなか逃れ難いということになる。
 私たちが大なり小なり持って暮らしている不安な心や心身症といった苦痛は、デカルトの思索にその淵源がある。
 この意味でデカルトは「陰陽両面の」近代の創始者なのである。「コギト・エルゴ・スム」の哲学原理は、判明にして明晰な知識を、正しい方法に従って思考を行ないさえすれば、誰でも平等に得られるとし、人々が高邁なその「自由意志」により、より良く生きていく術を説く。このデカルト哲学がどれほど蒙昧な迷信の闇を取払い、現今に素晴らしい社会をもたらしているか、その功績は計り知れない。
 けれどもその哲学の枠組みの中に、デカルト本人の意志とは無関係に、やがて心中の分裂や、生き生きとした隣人同士のふれあいを喪失して、いささか不自然な生き方を強いられる、そんな社会を作ってしまう種子が内包されていた。
 最初の近代人ルネ・デカルトの残した最も大きな遺産は心身問題である。
 思惟(思考する自我)と延長(肉体)というまったく別の二つの実体が結合してしまっている人間とはいったい如何なる存在なのか。デカルト自身の内部ではこの問題は決着していたかようにみえるが、後世のわれわれは解き難い矛盾だと受け取った。だから近現代の思想家はほぼ例外なくデカルトに挑み、そこから己れの立場を獲得していった。この論攷もささやからこのテーゼに取り組んでいく。
モダンタイムズ200の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
モダンタイムズを購入
金井隆久
作家:金井隆久
モダンタイムズ
0
  • 200円
  • 購入

1 / 6

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • 購入
  • 設定

    文字サイズ

    フォント