現代の危機を横超するために

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1 する人みる人

 思想史に名を残す哲人ならずとも、たれであっても、およそ物ごとを考えるとは、その対象から心理的に離れる、あるいは距離を取らなければものを考えられないということを意味する。
 たとえば、人生の実務に忙しく、その中に没入して生きている人はあまりものを考えない。明日の仕事を巧みにこなすための段取りを考えたりはするが、人生の意味とか、死とは何か、といった人にとって根源的で、真に真摯な問いを問うことはない。逆に云えば、そんなことを考えていたら日常の生活を送っていくことはできない。
 物ごとを考えるにはその対象から身を引いて離れることが必須である。したがって、親しい人と別れたり、事業に失敗して大きな借財を負ってしまったように、悲しみのため行動が抑制されている人は、そういった人生の根本問題について考える。株の取り引きが次々に上手くいって笑いの止まらない時に、同時に「生とは何か」「死とは何か」などと問う人はいないのである。
 青年が書を読み、そうした問いについて考えるのも、一つには彼らが心理的危機の時期にあるためだが、もう一つの重要な理由はヒマがたくさんあるためである。ヒマがあって人生の実務に没入する義務がないため、必然的にものを考えるのである。卑近な比喩だが、傍目八目といって、囲碁将棋では対局している当事者よりも、傍で観ている人の方が大局を見渡すことができ、好手がわかる。そこで縁台将棋ではつい焦れったくなって横から口を出し本人に嫌われる。これは勝負という行為に没頭して視野狭窄になり柔軟な思考ができなっている当事者よりも、行為に入り込まず外から眺めている傍観者の方がよく物ごとを考えられるということである。思考の一般的な性質だ。
 この論攷において、対象とする事物に対峠する思考法から、主体が対象に内在する思考法と、対峙とともに内在する思考について述べたい。
 人類歴史上、ものを考える人々が最初に誕生したのは、孔子やソクラテスや釈尊などが活躍した今から二千五百年前頃らしい。その頃人類の経済活動が飛躍的に活発化して、直接食糧を生産せず思索ばかりしているような人々を養っていく余裕が生まれた。すなわちヒマな人たちがうまれた。そうして更に時が経て、市民革命と産業革命以降、人は己れの意識について意識することができるようになった。自意識というものができた。それが極度に発達したのが現代である。自分が自分の意識について考えてしまうのが自意識であるから、当然その能力が高ければ高いほど、平凡な実務の日常生活に没入することができなくなり、行動停止の状態になってしまう。自分が自分自身の傍観者になるのである。だから一九世紀に科学と技術の急発展と、精神を病む人が多く現れたことの同時性は怪しむに足りない。実際、非常に知性の高い人でなければ解離性人格障碍に罹患しないということもある。
 一般に人間の知的能力とは、物事を「分ける」能力である。混沌とした状況や事物が混沌としたままではその意味はよく分からない。例えば、地震や津波、火山の噴火といった天災は大昔の人々にとっては、わけの分からない恐ろしいものであったので、神の怒りとか自分たちの不道徳への天罰のように意味づけていた。時代が下るにつれ加速をつけて「分ける」作業が進み、現代ではプレートテクトニクス理論により、海洋底が大陸の下へ潜り込むその歪みによって起こるなどと精密に説明されている。ここで事象への「意味づけ」という点では大昔の神の怒りも現代のプレートテクトニクスも全く同じであり、ただその精粗に天地の差があるのみである。
 人間の知的能力とは事物を分け、それをさらに分け、分けた細片を知恵によって並べ替えて意味づけていくことである。その前者を悟性といい、後者を理性という。またその説明を用いて道具などを改善し生活が便利なように作り直していく能力を技術という。
 「分ける」という事柄について譬喩として大学を取り上げてもよい。西洋中世の大学には七自由学科と呼ばれる一般教養に相当する学科の上に、法律、医学、神学の三つの学部しかなかった。知的作業の急速に活発になった十九世紀に哲学部が出来、さらにそこから政治学や社会学、心理学や文学・歴史学などいろいろな学問分野が分離独立し、今日ではそれらはさらにさらに細分化して、その勢いはとどまることを知らぬかのようである。分科された一つ一つの学問を「科学」という。
 細分化の速度は現代に近づくほど急加速しており、私たちは「分ける」という作業(これは同時に知性とも言い換えられる)が極端に進んだ時代に生きているのである。「分ける」作業があまりに進みすぎて、それらを並べ替えて秩序立てていく人間の知恵の方が追いつかなくなっている、それが現代だといってもよい。
 バターフィールドという人が「科学革命こそが近代を始めた」と云った。人間の自然に対する科学的認識が始まった。物事を分けて意味づけていくことがことが人間の知的行為なのだから、数学を用いて自然を科学的に認識するためにはその前提として、認識する人間がはっきりと自然から区別されて自律した人格を持っていなければならない。「認識される自然と渾然一体」となっていたのではそれは上手にできないのである。この自然への科学的認識という行為から個人として自律した近代人が生まれ、そこから個性の尊重、個人の尊厳という価値意識が育っていく。さらには自律した個人が集合して契約を結んで社会を作るという思想が成立するのである。
 同じように、自然に対する科学的認識という行為は哲学を認識論へと変えていくことになる。被認識物である自然と、認識者である自律した人格とが分離したからには、その人格が認識した自然はどの程度まで確かか、実際に存在する(であろう)自然と、認識した自然は一致しているのか、それともその自然とは、認識した人格の主観の中のみにある自然であって、本当の自然は別の姿をしているのではないか、こうした疑問が出てくるのは当然である。ここから近代哲学は人間がどのようにして世界を知りえるのか、その機構を考えることを主題としていくこととなる。
 さて時代を前に戻して、その分ける作業がまださほど進んでいなかった中世以前の人々にとって、私たちの見ている世界に比して、世界は遙かに混沌として見えていた。例えば、私たちは大統領であろうと国王であろうと、私たちと同じように物欲を持ち、喜んだり悩んだりして生きているただの人だということを、当然に知っている。これは自明の理であって、彼らが畏れかしこむべき何か神秘的な力を持って世界に君臨しているから従うのだなどと考える者はいない。
 しかし西洋中世人にとって、この世の秩序とは神の攝理が体現されたものであり、だから秩序を乱すことは全能の神に逆らうにも似たことであった。支配者と支配される者との権力関係、社会の安定を支えているカラクリ(キリスト教道徳もその重要な一つ)に人々が気づくことはなかった。
 そのカラクリを見破り、社会の仕組みを根源まで遡って分解し理解する作業(悟性と理性の作業)が始まったのがルネサンスから近世なのである。絶対主義地域国家が成り立っていくのと平行して、いったん社会を個人のレベルまで戻して「分け」、そこから順序立てて、国家の必要性から社会の成り立つさまを考えていく。社会契約論の思考を通して、権力関係のカラクリを非常に明晰にはっきりと見抜く、自覚化する作業が進んだ。ロックからルソー、米仏革命を経て今日私たちがあたりまえに思う「王様だろうとただの人」という意識が浸透した。
 それではなぜそうした知的営みが開始されたのか?
 近世初頭、すでにガリレイらによって無自覚的に近代自然科学の営みは始められていたけれども、一七世紀のデカルトによってその方法的基礎がしっかりと固められた。
 人が何ものかについて考え、分析し綜合するという知的営みを行うには、かれがその対象から心理的に離れていなければならない。だから科学が成立するためには「観察される自然」と「観察する自己」とが明瞭に分離されていなければならない。自然と溶け合ってその中に安住していては、その行為は不可能なのである。
 近代に於いては個人がまずあり、その各個が各自の自由意志で集合し社会を構成する。西欧中世では、所与のものとして唯一絶対の神の創造した社会がまずあって、人はそこに属することによってのみ人として生きられる。その社会とは、普遍的なキリスト教会世界である。このように西欧中世では、人間は観察される自然社会と渾然一体に融合していて、まったく離れていない。こうした社会では、近代の自然科学は起こりえない。そこにあったのは、精緻な目的論的スコラ学である。
 その後「観察される自然」と「観察する私」が心理的に別れた結果の近代科学の誕生と、古代的な明るい人間解放をよみがえらせるルネサンスの動きと、価値判断の基準の源泉を己れの内面のみに置いたことにより結果として徹底した主体的人間を作り上げていった宗教改革と、さらには偉人でもなく天才でもない「ただの人」である自分を平明に見つめた思索を行ったモンテーニュの著作など、近世のいくつもの潮流がいったんデカルトという巨人に収斂して「われ思う、ゆえにわれあり」という近代人の独立宣言となった。
 ここで重要なことは、主体的な精神の働きが明晰判明にとらえることによって初めて、延長を本質とする物体が存在するということであり、この点で少なくとも認識に関する限り、思考という人間の能力は神にも優るとされていることである。徹底したユマニスム(人間中心主義)である。人の知性と自由意志を高く評価する。モダンの時代、自然と対峠した「私」の活動が、科学・技術の急加速の原動力となり、また人間社会へ向けられた「私」の眼差しは、人が人を支配するそのからくりを見抜く能力となってホッブズ、ロックらの社会契約思想的な政治思想となり、それらが種々の紆余曲折を経て、やがて今日の自由民主主義体制の成立へとつながっていく。
 社会契約論がいかに革命的であるかといえば、それは社会契約という思考実験を用いて「社会とは絶対神から与れた動かしてはならないものではなく、人間が自分たちの意志によって、より良い方向へ変えてもいいものなのだ。」と主張したことにある。
 中世では、農夫の息子に生まれたものは、生涯農夫として暮らすのが神への道であり、その思想を支えたのが階層的秩序観ないしは存在の階段といった政治思想(中世では政治思想は同時に神学である)であった。であるから、社会の改革を考えるなどということは、神への冒涜であって悪であって、考えも及ばぬところであった。
 けれども、都市が成立し、広域経済が発展し、各地の封建法制の領域観念が出てくる中世末期になると、人々は少しずつではあるが、人が人を支配する権力の事実のからくりに気づくようになったのである。その作業の進行の上で貢献があったのが、イングランドやフランスやイスパニヤなど各地で勃興してきた封建王政であった。中世後期に各地でその勢力が育ったのは、都市の成立という経済事情とその現実を肯定するトマス・アクィナスの神学によるところがあった(トマスは「種の自己展開は善である」という) 。やがて絶対主義に成長して行こうとする封建王制は、目的態に至る可能態として自己を肯定しようとするキリスト教普遍権威に対して、それに寄りかかることなく自己の権力の正当性を主張するには、特殊地域的な己れの存在を、論理的に証明してみせる必要があった。「王は王国内において皇帝」であることを、普遍的権威と、被支配者とに理論的に納得してもらわねばならない。ここに合理的な考えと活動が見られ、政治思想が生まれ(マルシリオからマキャベリ)、やがて近代社会科学にまで達するのである。
 ギリシアに始まる合理性の追求と、キリスト教による魔術の放逐の二点により、論理対論理による対決によってのみ自己の正当性を追求できるという政治文化が醸成され、その戦いの中で特殊の封建王制が普遍となっていった。論争の過程で近代政治思想と自由民主主義社会の種子を発生させ育てたことに封建王制の意義がある。
 正当な政治という観念は中世よりはじまる。古典古代には「良い政治」「悪い政治」という区別だけがあった。直接民主制なのだからそれは当然である。支配する権力と支配される人民とに分かれたあと、剥き出しの暴力で押さえつけたのでは統治に膨大なコストがかかるから、権力としては民衆が上の人の権威には従うのがあたり前だから従うとごく自然に考えるように持ちこみたい。ここに「正当な政治」という観念が出てくる必然がある。
 中世世界は、宗教的権威を代表する教皇と、軍事力を代表する皇帝の二つの中心からなる楕円とよく言われるが、その皇帝の政治権力の右の意味での正当性はキリスト教から付与される。八世紀フランクでピピンがクーデターを興した時、ゲルマン神話によって正当性を持っていた先朝を倒したビビンに新たに正当性を与えたのはローマ教皇であった。この時代、相当程度北ヨーロッパにキリスト教が浸透していたため、彼はペテロの座にいる教皇に肯定されることにより正当性を得ることができた。
 こののち中世を通じて、政治権力はキリスト教との関係をいかようにすればよいか、とすることで、自己の正当性を維持しようとした。だから神聖ドイツ皇帝が教皇を批判するときも、全キリスト者の保護者として、ペテロの後継者である現在の教皇がその座にふさわしくない行いをしていると言って批判するのであって、決して皇帝が教皇を滅ぼしてしまおうなどと考えることはない。自分を正当化してくれる権威がいなくなって共倒れしてしまうから。同じように
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。」
との聖書の記述に基づき、教皇が皇帝を兼ようとする動きもありえなかった。
 新プラトン主義の支配した中世前期では、世俗の権力とは、世俗の権力ということだけで罪深いものであり、神の秩序と、権力もその中に入る自然的秩序とは断絶していた。けれども中期以降次第にそれが連続的になっていき、アリストテレス哲学をキリスト教風に換骨奪胎したトマス・アクイナスの思想でそれが完成された。そこから皇帝ではない各所の封建権力の正当化が論理をもって行われ、少しずつ近代への扉が開かれ始める。こうした政治(神学)思想の流れの中で、常に一貫して認められるのは、物ごとの価値の位置づけや争いを必ず論理的に処理していこうという合理精神である。ここから、人を超越的に支配する魔術などからの解放が行われ「人が人を支配するカラクリを見抜く眼力」(福田歓一『近代の政治思想』岩波新書(序説と第一章)一九七〇年)が養われていった。
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金井隆久
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