付録:誕生から死後までの意識

第三章 死後の意識

死後はどうなるのか?は大変興味深いものですが、これは死ななければわからないが、死ねば誰でもわかるので、生前、各自が、それぞれ心の安定のために生前に想像することですから、死後の世界の想像は各自各様であって構わないと思います。

死後の世界の強要は「ありがた迷惑だ 」と思います。


私は、「 誕生から死後までの意識 」を発表しておもうことの中に書きましたが、僧侶やスピリチュアルと言われる人が「 地獄 」や「 極楽 」や 天国 」とか「 霊界 」とかいう所には行きたくないのです。

死ぬ時、最も信頼するものに縋って死のうと思うでしょうから、各自は、自分が信じる所に行くでしょう。

「 地獄 」や「 極楽 」や 天国 」がある世界を望むなら、そこに行くでしょうし、「 霊界がある 」という人には霊界があり、死ねば霊界に行くでしょう。

死を迎えた心の安定の問題ですから、各自が好きな所に行くと想像するのがよいでしょう。

死んだ人のみ分かり、誰でも死ねば分かるのですから。

 

 

私の考えは、「 誕生から死後までの意識 」の追記に書きました。


「 輪廻転生 」するとしても良いのですが、私は、仏教で使われる意味を把握していないため、「 循環する 」としました。

私は、気(ki)が循環すると思っていまして、その過程を、戦国武将の上杉謙信が残した逆説と思われる「 死中生あり、生中生なし 」という言葉に当てはめてみました。(同書、追記、5

そして最後に「 カエサルのものはカエサルに 神のものは神に 」と書きましたが、キリスト教徒ではありませんのでこの意味は知りませんが、私が書いた意味は、「 誕生により与えられたものは地球上に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰る 」ということです。

また、ユリウス・カエサルは「 人は喜んで自己の望むものを信じるものだ 」と言いますから、私は、「 誕生により与えられたものは地球上に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰る 」と望み、信じ、それを頼りに死にたいと思っています。

 

ゴーギャンは「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」の問いに絵画を残しました。

私は、本の中に(同書、第二章、8)残しました。

かって、日本にも西暦774年に生まれた「 空海 」という僧侶が、似たようなことを言いました。

 

 

生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、

 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)

 

 

Yahoo 知恵袋によりますと、「 人は何度生き死にを繰り返してもなぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない。輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海自身も己の姿の中にも見出そうとした」という意味だそうです。


親友や先輩の死にあたって、「 好き勝ってな老人の話 」というブログの中で、私の「 自分探し 」が始まりましたが、私のブログでの到達点は、次のようになりました。

 

 万物は流転し、エネルギーは形を変えることがあっても消滅することはないとすれば、自分は宇宙上で、高口克則と名前をつけられた一つのエネルギーの結晶であり、エネルギーが作った一つの現象であり、エネルギーから生まれた私は、またエネルギーに戻り、人間には観察不能な気(ki)となり、肉体は地球上の栄養分となり、意識は一つの文化として社会に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰って欲しいと思いますし、「 時間 」を考えるとき過去や未来や現在などの時制で説明したり、宗教で「 永遠 」などと聞きますが、「 時間 」は脳の産物で、今という間(ma)しかないとすれば、この「 今 」という間(ma)の中に脳で考える「 過去と未来や永遠 」があるのであり、死後、気(ki)になって、間(ma)の中を漂うとすれば、すでに「 永遠 」を含んだ間(ma)の中にいますから、生前、ことさらに「 永遠 」のことを考える必要はなく、死ねば「 永遠に存在する 」のではないでしょうか?

また、私は子供に「 私が死んだら星になるから、寂しかったら見上げてごらん 」と言おうと思いますし、「 私が死んでも、お前のそばにいて、ずっと守ってあげる 」とも言おうと思います。(同書、第二章、8-3

なぜなら、気(ki)は、「 宇宙に充満する微物質。アトムとは異なり、ガス状に連続していて分割できない。万物を形づくり、それに生命、活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」(前述、第一章(B))ならば、遠い星の所に居ることも、自分の子供の身体を形作る細胞空間の中に居ることも可能だと思うからです。

私が死ねば、僧侶が「暗い」とか「冥い」とか言う無明の中に私は入ってゆくと思いますが、もしこの無明が宇宙エネルギーの気(ki)であったとしたら、無明にも上記のような良い所もあるだろうと思っています。


ま、今の私は、死ねば、仏教でいう輪廻転生して、蚊や蠅になり、殺されて、また輪廻転生を繰り返す宿命であるかも知れません。


神や仏のみが知る。

………です。

追記 「誕生から死後までの意識」に於ける課題に対する私の解釈

付録を書いてもまだ分からないという女性の意見に答えまして、私が電子書籍に於いて課題と考えたこと、及びそれに対する私の解釈を書きたいと思います。

 

A)   発刊した動機と課題と考えたこと

 

私をカラオケに誘って頂き、飲食を共にした守山区の小林という市民係長が、60歳の定年を迎える前に肺ガンの末期で退職され、自宅療養で亡くなりになった事をきっかけにして、私はブログ「 好き勝ってな老人の話 」を立ち上げ「 自分探し 」をはじめました。

同ブログは、平成291231日を以て廃止しましたが、その総括が「 誕生から死後までの意識 」あるいは「 付録 誕生から死後までの意識 」でありまして、これは亡くなった市民係長への追悼の小説であります。

 

「 自分探し 」をする中で、1、上杉謙信の「 死中生あり 生中生なし 」や、2、ゴーギャンの「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」とか3、般若心経の「 色即是空 空即是色 」や4、キリスト教の「 カエサルのものはカエサルに、神のものは神に 」とか、5、空海の「 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)」などという言葉に出会いまして、これらは、死に向かう人の言葉のように感じまして、これらを一連の言葉で解釈し直すことが、小林係長への供養になり、ひいては私の死への覚悟をさせてくれるのではないだろうかと考え、これを私の「 課題 」としました。

 

一連の物語にするために使った道具としての言葉は「 宇宙エネルギー 」と「 生命エネルギー 」と私の持論である「意識は電磁波の構造を持つ」という考えと、生気論の「 気(ki)」や西洋の思想である「万物は流転する」とか「 エネルギーは形を変えるが消滅はしない 」(エネルギー保存の法則)という考えでした。

 

それらを使い、上述の言葉を、とかく批判の対象となる日本の神仏習合(明治維新に伴う神仏判然令以前100年も日本に続いていた)のもとに一連の「 物語 」として構成しようとしたのが「 誕生から死後までの意識 」という電子書籍でして、これはあくまでも小説で、私の「好き勝ってな老人の話」というブログの総括、つまり「 自分探し 」の総括ですので、鼻で笑われても文句は言えないシロモノです。

 

B)   私の解釈

 

私の小説の中では、エネルギーと気(ki)は、同義です。

物語のあらすじは、生殖により、「 宇宙エネルギー(気(ki)) 」(自然エネルギーと同義)が生き物を生かす「 生命エネルギー(気(ki)) 」に「 形 」を変えて、生き物のDNAに応じて、電場が磁場を生むようにエネルギーが意識を派生させ、右脳から空間意識を左脳から時間意識を派生させて「 誕生 」し、その後、脳が自ら作った「 時間 」や「 空間 」という概念で、経験した衝撃(エネルギー)を出来事の「 因果関係 」という「情報」として保存し、深層意識に蓄積し、自分が今後生きるための、無意識で流れるものである「 能力 」とし、日々、流転する宇宙エネルギーの気(ki)に生命エネルギーの気(ki)を呼応させて、その気(ki)を意識層から無意識層に貫く時間軸である左脳と空間軸である右脳を通じて、これまで蓄積した、無意識で流れる自分の可能性である「 能力 」を呼び起こし、そして行動に至ると考えます。(意識は電磁波の構造を持つ)

 

 

肉体と意識との統合を「 霊 」と解釈します(人間が霊長類とよばれる)が、「 霊 」は人間が考えた概念であるという点で、「 意識 」であり、「 霊 」の目指す所は「 人格の完成 」であり、ブッダがその象徴でしょう。

「 仏 」がブッダで「 覚者 」や「 悟った者 」であると解釈しますと、悟ることは「 人格の完成 」と言えましょうが「 神 」(エネルギー)になったとは考えませんので、ブッダの思想である仏教には「 神 」になる教えは無いと考えます。

神風特別攻撃隊員を死地へ向かわせる際、その命を下す上司が「 死んで神になれ 」と言ったらしいですが、戦死すれば靖国神社の桜になるのではなく自分を産んでくれた故郷の自然エネルギーに戻ると私は思いますから、人間はすでに神の子とする私の本意ではないですが、「神」を自然エネルギーとするのであれば、その言葉は正しいということになります。

 

 

「 生命エネルギー 」から派生した「 意識 」は「文化」という違った形になり、生きている他者の可能性となりますが、「生命エネルギー」の終焉である死によって、意識と肉体からなる「 霊 」はその結合を解き、意識は文化として社会に残り、肉体は屍と「 宇宙エネルギー」(自然エネルギー)に分離し、前者は地球の土に、後者は地球を取り巻く「大気」に混じるだろうと思います。

私は「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)を「 神 」と解釈し、日本の宗教である神道の「八百万の神」を自然エネルギーであると解釈し、神(自然エネルギー)と人間とを取り結ぶ場所が「 神社 」であり、人間は等しく神の子として生まれ、生存中は人格の完成である「 仏 」を目指すべきと考えます。

このように、神仏が習合したもの、宇宙エネルギーと生命エネルギーが一体となったものが人間であると思います。

今の私は「宇宙エネルギーの気(ki)」の結晶に過ぎず、台風などの「 現象 」と同じ「 現象 」であり、台風が消滅すればエネルギーに戻るように、現象である私も、死ぬことにより、私を産んでくれた「宇宙エネルギーの気(ki)」に戻るだろうと考えます。

 

 

C)   課題に対する私の解釈

 

この循環が、上述の2,4,5、の言葉の内容であり、1、の言葉はその経過を示すものと解釈しています。


ただ、もう一つの3、の言葉は、「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)の循環であると捉えて、西洋のエネルギー保存の法則や万物は流転するという思想で解釈してみました。

この3、は「 存在 」(真理)を、脳の産物である「 時間 」が混じった「 実体 」の観察を通して認識することが可能であるかについて疑問に思うので、「 第四章、実存主義から得たもの 」の中で「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと書きました。

これらの解釈の様子は、電子書籍で該当箇所をご覧ください。

また、3、の言葉は「 般若心経 」の一節ですが、テレビなどを視聴しますと、山岳信仰に現れる山伏が、山岳が持つ自然の霊力を身に付けるため日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破し、山伏修行をする際、霊山の中に設けられた祠で唱える経文が「 般若心経 」であることは、古代の山伏たちも、その経文が自分も含んだ自然エネルギーを対象にしていると考えていたのではないかと、私には思えます。

 

私の力はここまでであり、皆様の力による更なる進展を期待しています。

kandk55
作家:高口克則
付録:誕生から死後までの意識
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