付録:誕生から死後までの意識

第一章 二つの気(ki)というエネルギー

私が「 誕生から死後までの意識 」の中で、何を言っているのかわからないという女性からの苦情も頂きましたので、整理が必要だと思いました。

私は、学者でも科学者でもない年金生活者であることは書きました。

渡辺二郎さんの著書を除けばネットの情報で分かりますので、素人の私がこれまで考えた構想を公表すれば、何かがわかってもらえると思い、「 付録 」として刊行したいと思います。

 

A)気(ki)は、ネット上、ブリタニカ国際第百科事典に「 物の存在、活動などを説明する中国哲学上の概念」で「気は人間の心から独立で、宇宙に偏在し、それ自体活動力をもった共通普遍の質量であって、それが個々の物を凝集すれば物は生存し、散逸すれば物は死滅するとされた」とあり、その後の展開もあるらしいですが、私の考えは、少し違います。

 

B世界大百科事典第2版では「宇宙に充満する微物質。アトムとは異なり、ガス状に連続していて分割できない。万物を形づくり、それに生命、活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」とし、それ以降の展開もあるらしいですが、もっと具体的に考える私とは、違います。

 

C)百科事典マイペディアでは「 中国および日本でさまざまな意味内容で使われるが、大別すると、変化・流動する自然現象(天気、空気、香気など)、生命・精神・心の動き(元気、精気、気だて、気力、気持ち、根気など)その他(気配など)となる。」とあります。

 

上記(B)に「 万物を形づくり、それに生命、活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」とするが、私は、これらを二種類に分けました。

 

一つは、宇宙エネルギーとして、「天気(tenki) 」や「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」や「 気候(kikou)」や「 気象(kisyou)」などの言葉に共通な自然現象を表す気(ki)の一切を含み、天地創造とされるビッグ・バンを惹起させたとされるエネルギーを「 神 」とし、「 神 」の身体を空間としました。(「誕生から死後までの意識」第二章1

それらは、百科事典が言うように、「 宇宙に充満 」して「 存在 」するものでありますから、人間の思考上で考えられた「 無 」は思考の観念で、頭脳の中にあるかも知れないが、「 実体 」がないから認識することは出来ないので物質界には存在しないとしました。(同書、第二章、16

もしあるとすれば、ブラックホールの中かもしれませんが、人類は経験していないと思われるので「 無 」を否定しました。

 

もう一つは、生命・精神の「 元気(genki)、気力(kiryoku)」などの気(ki)ですが、私は、「 肺とか心臓とか脳などという臓器が活動し、血液を循環させているのが気(ki)である 」とし、「 心臓の動きは心電図、脳の活動は脳波により推察されるだろう 」としました(同書第一章、4)。付け加えるなら、細胞分裂の際の電荷も気(ki)だろうと思います。

これらを、生命エネルギーとしました。


「 元気」とか「 気力 」というのは、身体の調子であると思いますが、身体の調子を整えるのが気(ki)であり、「 元気 」や「 気力 」が五感で捕らえられるものであれば、意識だと思いますので、もしそれであれば、気(ki)から除外します。

 

この二つの気(ki)が「 呼吸 」などにより人体を絶えず出入りする「 流れるもの 」であると思います(同書第一章4)ので、エネルギー(力)であり、動物も人間共通であるのに対して、精神や心の働きは、「 生命体の個性を守るものであり、生命体特有のものだから」 気から「 派生するもの 」、いいかえれば各自のDNAを通して出てくる「 意識 」であり、私は、それら精神や心の全体を「 霊 」としました。(同書、第二章、7

 

私は、「 流れるもの 」であるこの二つの気(ki)というエネルギーと、それから「 派生するもの 」である「 意識 」や「 霊 」の組み合わせで、「 誕生から死後までの意識 」を書きました。

 

第二章 誕生から死まで

1 「 誕生 」


科学者ではないのでわかりませんが、ネットによりますと、生殖により、全生物に共通の原理とされるセントラルドクマに従って細胞分裂が起きるらしいですが、その「 転写 」の際のプラス電荷とかマイナス電荷などの発生は、宇宙エネルギーを取り込んだ生命エネルギーのように思われ、それが人体を駆け巡って細胞分裂により生じた臓器を作動させるソフトウェアになるのだろうと思います。

「 意識 」は、その後、DNAを通して派生しますから、そのソフトウェアは「 意識が無い 」という意味で「 無意識 」であり、物質的であり、本能というのかも知れません。

一般の動物は、ここまでですが、人間は本能に加えて「 意識 」を持ち、その結果、煩悩に満たされ、煩悩に従って行為することもあるかと思います。

もしも、人間らしく生きよ、というのが「 創造主 」の「 意識 」を与えた意図であるならば、上記のような行動は、「 創造主 」から見て、人間は「 意識 」を持たない動物より劣るのかも知れません。(同書、追記、3-2

 

2 意識

 

これは「 誕生から死後までの意識 」のテーマで、同書、第一章をお読みください。


私の考えを少し書きます。


「意識は電磁波の構造を持つ」としましたが、電磁波は宇宙エネルギーでありますから、その知識がそのまま意識に当てはまるというのではなく、脳を流れるのはイオンによる生物電気でしょうから、生命エネルギーであり宇宙エネルギーではないので、それらを同一視することは出来ませんが、電気信号である以上、電気が持つ一般的な性質や構造は持っているでしょうから、「 流れるもの 」である脳波の電流の流れる範囲を電界と見て、活動の場を細胞の空間で満たされた「 身体 」という「 空間 」とし、各自各様である「 精神 」や「 心 」は、気(ki)からDNAを通して「 派生したもの 」である磁界と見て、個人は独自の生活リズムを持つと思われるので、活躍の場を「 時間 」としました。

私は、「 空間 」も「 時間 」も「 意識 」であるとしますから、磁界とされる「 時間 」は意識であると思いますが、電界とされる「 空間 」の身体の範囲も意識だろうと思います。

なぜなら、電界である「 身体 」という「 空間 」は宇宙空間へと繋がっているのですが、「 自分 」という意識がその範囲を決めている以上、「 意識 」になってしまうと思うのです。

「 空間 」を意識としてしまう五感は、空間や感覚や直感を担当するとされる「 右脳 」を空間意識軸に当て、電界から派生するのは人間特有の精神だと私は思いますから、思考や論理を担当する「 左脳 」に時間意識軸を当てました。(同書、第三章、4-2)。

幸いにして人間は生まれながらに右脳と左脳を持っていますから、人間は時間意識軸と空間意識軸を生まれながらにして持っていることになります(同書、第三章、4-2)。

これら二つの意識の軸は、目前の事態を、自分の「 時間(リズム) 」と「 空間(運動する余地) 」とで運動可能性(自分が何を出来るか)を探り、物事に対処する能力(力ですから流れるもので、エネルギーであると考えます)を自分につけるのだと思います。

この二つの軸は、可能性を探るため、空間軸は宇宙の広がりを想像するでしょうし、時間軸は永遠を想像するのだと思います。

その究極は、空間軸と時間軸を産むエネルギー(気)は、宇宙の果てまで広がり、エネルギー(気)は、永遠に続くと想像するのでしょう。

ですから、エネルギー(気)は、第一章の(A)・(B)(C)のように想像するのだと思います。

ある状況で何かの行為が必要になった時、状況の宇宙の気(ki)が生命の気(ki)に触れ、宇宙の気に反応した生命の気が、体内の時間意識軸と空間意識軸を伝い、意識から無意識に変わっている運動可能性(運動は知覚も含める)を現実に引き出し、対処すると思われます。

宇宙エネルギーと生命エネルギーは気(ki)であることは同じなので、両者の気(ki)が一致したときが、宗教家が言う「 啓示 」を受けた状態だろうと思います。

ハイデッガーが言う「 存在の声 」もこれと同じだと思います。

二つの気(ki)の触れ合いを感じることが出来るのは、「 時間 」の中に漫然と生きるのではなく、宇宙エネルギー(神)に対して鋭い「 感受性 」を持ち続けて生活することが必要だと思います。

日本の山岳信仰で、修験者や山伏たちが、俗世との関わりを断ち、悟りを開くために神や御霊が宿る山深くに入り修行を行いますが、修行により神(エネルギー)に無意識を同化させ、山に宿る神(エネルギー)を身に帯びようとするのではないかと思います。

 

 

3 誕生から死までの認識

 

何のために、右脳と左脳があるのか?といえば、生きるためでしょう。

生きるとは、死なないことです。

生まれてきた意味があるのでしょうが、私はこれまで発見できないまま、両親や多くの親友が死んでゆきました。

私も死ぬのですが、死んでいった親友とどこかで出会ったとき、生きるとは何かを報告するために、私の「自分探し」が始まり、この書の結論に至りました。

未だ、生きるとは何かを知ったのではありませんが、死を考えながら、生きることを止めず何かをすべきなのでしょう。

なぜなら、神様は、「生きて何かをしなさい。私が簡単に死なないように、右脳と左脳を作ってあげたのだから」と言われているのかも知れません。

右脳と左脳を使って、記憶や認識をしますが、それは、経験を重ねてゆく中で、地球の自転がもたらす不測の事態に対処するために、自分の可能性(自分が出来ること)を蓄積して備えることであり、そのために読書し先人の言葉や行動から「 その人の可能性 」を引き出して「 自分の可能性 」(無意識になれば能力)にして、新たな事態を自分のDNAで切り取り、時(T)場所(P)、機会(O)に応じて、可能性を行為により現実に示すのだと思います。(同書、第一章、6

「 意味 」といのは、先人たちが残した「 可能性 」であると思いますが、「 万物は流転 」しているので、自分のDNAで取捨選択すべきものだと思いますし、言葉に縛られると「 可能性 」を見逃すこともあるかも知れません。

 

記憶・認識から行動までは、「 誕生から死後までの意識 」の第三章に書いています。


人は記憶がなければ日常生活はできません。

記憶については、同書、第一章2 に書き、何を記憶するかは、同書、第一章3 に書き、なぜ記憶するのか?については、上述しましたように、記憶は、経験から受けた衝撃(エネルギー)を「 印象 」とし、「 印象 」を「 因果関係という物語 」として保存し蓄積し、地球の自転による不測の事態に対処する、つまり行動するために「 自分の可能性 」を「 自分の能力 」という「 流れるもの 」(エネルギー)に変えることだとしました。(同書、第三章4-1

 

3-1、「 時間 」


しかし、それを書く前から、「ビッグ・バンが宇宙の誕生とすれば、エネルギーと空間しかなく」「 時間 」の存在については疑問を持っていました。(同書、第一章、1

太陽系が引力で均衡が取れていることから考えても、エネルギー(力)と空間(間(ma))だけで考えるべきだろうと思っていました。

でも、現実を見ると原因から結果になるまでは「 時間 」が存在するように思えましたが、「物質(形)の不可逆性が、その判断に導くのであり」、「その不可逆性はエネルギーの不可逆性であり」、時間の方向があるのではないと思ってから(同書、第三章、3)、「 時間 」は本当に宇宙に存在するものだろうか?と考えるようになりました。

エネルギーの変化は時間の経過を待たずして行われます。

人間から見れば原因とされる事象と結果とされる事象に間(ma)があると思われますが、これを計測したものが「 時間 」だろうし、他にも「腹や睡眠、女性の生理、生物の成長などにも、間(ma)があるし、これを天体の動きで知ったのが「 時間 」であり、天体の動きは宇宙エネルギーであり、天体が一定の時間の経過を待って動くのではなく、一定の動きをするのは、均衡を保つエネルギーが一定であるからではないか?と考えるようになりました。(同書、第一章)

もし、宇宙に、「 神(エネルギー)」の領域に「 時間 」や「 空間 」があるとしたら、人間は、それを「 時間意識 」と「 空間意識 」としてしか把握できないだろうと考えました。(同書、第一章、6

面白いことに、日本語で「 時間 」や「 空間 」や「 人間 」に、共通して間(ma)が使われ(同書、第四章、2)、間(ma)は、その他にも「 居間(ima) 」や「 客間(kyakuma)」などがあり、自分が自由につかえる主観的間隔です。

「 因果関係という物語 」を順序よく作るために「 左脳 」を軸として「 時間 」が作られ(同書、第三章、4-2)、「 物語 」を作る前に「 始め 」となる「 実体 」を感覚で捕らえるために、空間や感覚や直感を担当する「 右脳 」を軸に「 実体 」の形を作り、感覚する「 実体 」が何者かなどの「 意味 」を時間的、歴史的に捕らえる必要があれば「 右脳 」と「 左脳 」の共同作業をするのですが、「 時間 」も「 空間 」も自分が運動できる余地の中で行為可能な自分だけの因果関係という物語を作っているのだと思います。

自分が受けた「 印象 」とまた別の「 印象 」にある主観的な間(ma)を自分にとって、行動(知覚も含む)可能な因果関係を作るための接続道具として、「 時間 」とか「 空間 」という概念を脳が作り出したのだろう思いました。(同書、第一章、2

自分の可能性を探るのですから、その道具は主観的であっても不都合はないからです。

それは、後日、渡辺二郎氏の本の中の、アリストテレスが「 心以外に、もしくは心の理性以外に、数えるものもないならば、心がなければ時間は存在しないであろう 」(同書、第四章、2)という言葉に出会ったとき、「 時間 」は心の問題だと強く思うようになりました。

ただ、その自分の可能性が、エネルギーの変化を予見することが出来ないならば、役にたたないので、「 時間 」や「 空間 」を経験から得た値の概念で因果関係を組み立てるのだろうと思います。

 

 

3-2、「 因果関係 」

 

因果関係とは何か?と考えたとき、宇宙エネルギー、あるいは自然エネルギーをどう扱うかの問題に突き当たりました。(同書、第三章、3

それは、「 エネルギーは形を変えるが消滅することはない 」ということを、エネルギーが形作り、時間を含んだ「 実体 」しか認識することが出来ない人間が、エネルギーの変化そのものを認識することが出来るのか?でした。

「 原因 」とか「 結果 」とか言っても、物質(形)の不可逆性の「 理由付け 」であるにすぎず、エネルギーが変化すれば「 結果 」という形が「 原因 」となって別の「 実体 」を説明することになります。

エネルギーは絶えず変動しているから、「 因果 」と言っても、それは主観的にすぎないと考えるようになりました。(同書、第四章、2*私の考え)

「 エネルギーは形を変え、「 因果 」は、認識する人によって相違しますから、「 因果 」は主観的に存在すると思います。主観的というには、その人が(自分のDNAで)切り取った限りの「 因果 」であり、エネルギーは、結果がまた別の原因となり、止まるところがないので、固定した「 因果 」はないと思います。」(同書、第四章、2 *私の考え)

万物は流転するとは、流転しない物はないということであり、それは、物がエネルギーの塊であり、エネルギーは変動し続け止まることはないので、物も変動し続け、それが人間にとっては、因果が果てしなく続くように見える。

このような思いで、「 色即是空 」「 空即是色 」を解釈しました。(同書、第三章、3

 

因果も主観的だから、どこを始点(原因)とし、どこを終点(結果)のするかによって、「 物語 」も変わり、「 体系 」も崩れ、科学の進歩もあるが、間(ma)もそもそも「 心 」という主観的なものだから、「 時間 」も「 空間 」の値も使う人の都合で使うことにより、体系も崩れ、科学の進歩もあると思います。

このように書いてきて、振り返ってみますと、全部、自己流の考えだと思います。

でも、これは私にフィットした可能性であり、真理の追究には遠く及ばないことは知っています。

 

3-4、「 霊 」は「 存在 」を認識することが出来るか

 

この問題から、「 霊 」つまり「 心 」が「 神 」を認識することが出来るのだろうか?という疑問が生じました。

「 存在 」とされる宇宙エネルギーは「 本能 」や「 獣性 」や「 意識 」に曇らされ、煩悩の中の生命エネルギーとなり(同書、第二章、7)、その生命エネルギーが必要とする「 時間 」を帯びた「 実体 」の認識を通して、「 心 」が「 論理 」や「 物語 」を作るのですが、「 論理 」や「 物語 」で、「 存在 」とされる宇宙エネルギー(神)に迫ることができるのか?ということです。

それが如何に困難であるかというのはハイデッガーが示したように、大変困難な道であると思います。(同書、第四章)

私にとって、論理や言葉で「 存在 」を語るのは、「 時間 」を帯びた「 存在 」であり、本来の「 存在 」は「 時間 」を待つことはなく、「 心 」の有り無しに関わらず、人間が居ようと居まいと在り続けるものだと思いますので、「 心 」の領域外の、合理性を超えた逆説と思われる言葉や事実の中にあるのではないかと思います。

 

第三章 死後の意識

死後はどうなるのか?は大変興味深いものですが、これは死ななければわからないが、死ねば誰でもわかるので、生前、各自が、それぞれ心の安定のために生前に想像することですから、死後の世界の想像は各自各様であって構わないと思います。

死後の世界の強要は「ありがた迷惑だ 」と思います。


私は、「 誕生から死後までの意識 」を発表しておもうことの中に書きましたが、僧侶やスピリチュアルと言われる人が「 地獄 」や「 極楽 」や 天国 」とか「 霊界 」とかいう所には行きたくないのです。

死ぬ時、最も信頼するものに縋って死のうと思うでしょうから、各自は、自分が信じる所に行くでしょう。

「 地獄 」や「 極楽 」や 天国 」がある世界を望むなら、そこに行くでしょうし、「 霊界がある 」という人には霊界があり、死ねば霊界に行くでしょう。

死を迎えた心の安定の問題ですから、各自が好きな所に行くと想像するのがよいでしょう。

死んだ人のみ分かり、誰でも死ねば分かるのですから。

 

 

私の考えは、「 誕生から死後までの意識 」の追記に書きました。


「 輪廻転生 」するとしても良いのですが、私は、仏教で使われる意味を把握していないため、「 循環する 」としました。

私は、気(ki)が循環すると思っていまして、その過程を、戦国武将の上杉謙信が残した逆説と思われる「 死中生あり、生中生なし 」という言葉に当てはめてみました。(同書、追記、5

そして最後に「 カエサルのものはカエサルに 神のものは神に 」と書きましたが、キリスト教徒ではありませんのでこの意味は知りませんが、私が書いた意味は、「 誕生により与えられたものは地球上に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰る 」ということです。

また、ユリウス・カエサルは「 人は喜んで自己の望むものを信じるものだ 」と言いますから、私は、「 誕生により与えられたものは地球上に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰る 」と望み、信じ、それを頼りに死にたいと思っています。

 

ゴーギャンは「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」の問いに絵画を残しました。

私は、本の中に(同書、第二章、8)残しました。

かって、日本にも西暦774年に生まれた「 空海 」という僧侶が、似たようなことを言いました。

 

 

生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、

 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)

 

 

Yahoo 知恵袋によりますと、「 人は何度生き死にを繰り返してもなぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない。輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を、空海自身も己の姿の中にも見出そうとした」という意味だそうです。


親友や先輩の死にあたって、「 好き勝ってな老人の話 」というブログの中で、私の「 自分探し 」が始まりましたが、私のブログでの到達点は、次のようになりました。

 

 万物は流転し、エネルギーは形を変えることがあっても消滅することはないとすれば、自分は宇宙上で、高口克則と名前をつけられた一つのエネルギーの結晶であり、エネルギーが作った一つの現象であり、エネルギーから生まれた私は、またエネルギーに戻り、人間には観察不能な気(ki)となり、肉体は地球上の栄養分となり、意識は一つの文化として社会に返し、私を導いて来たものは、私を導くために来たところに帰って欲しいと思いますし、「 時間 」を考えるとき過去や未来や現在などの時制で説明したり、宗教で「 永遠 」などと聞きますが、「 時間 」は脳の産物で、今という間(ma)しかないとすれば、この「 今 」という間(ma)の中に脳で考える「 過去と未来や永遠 」があるのであり、死後、気(ki)になって、間(ma)の中を漂うとすれば、すでに「 永遠 」を含んだ間(ma)の中にいますから、生前、ことさらに「 永遠 」のことを考える必要はなく、死ねば「 永遠に存在する 」のではないでしょうか?

また、私は子供に「 私が死んだら星になるから、寂しかったら見上げてごらん 」と言おうと思いますし、「 私が死んでも、お前のそばにいて、ずっと守ってあげる 」とも言おうと思います。(同書、第二章、8-3

なぜなら、気(ki)は、「 宇宙に充満する微物質。アトムとは異なり、ガス状に連続していて分割できない。万物を形づくり、それに生命、活力を与えるもの。物質=エネルギーと定義される」(前述、第一章(B))ならば、遠い星の所に居ることも、自分の子供の身体を形作る細胞空間の中に居ることも可能だと思うからです。

私が死ねば、僧侶が「暗い」とか「冥い」とか言う無明の中に私は入ってゆくと思いますが、もしこの無明が宇宙エネルギーの気(ki)であったとしたら、無明にも上記のような良い所もあるだろうと思っています。


ま、今の私は、死ねば、仏教でいう輪廻転生して、蚊や蠅になり、殺されて、また輪廻転生を繰り返す宿命であるかも知れません。


神や仏のみが知る。

………です。

追記 「誕生から死後までの意識」に於ける課題に対する私の解釈

付録を書いてもまだ分からないという女性の意見に答えまして、私が電子書籍に於いて課題と考えたこと、及びそれに対する私の解釈を書きたいと思います。

 

A)   発刊した動機と課題と考えたこと

 

私をカラオケに誘って頂き、飲食を共にした守山区の小林という市民係長が、60歳の定年を迎える前に肺ガンの末期で退職され、自宅療養で亡くなりになった事をきっかけにして、私はブログ「 好き勝ってな老人の話 」を立ち上げ「 自分探し 」をはじめました。

同ブログは、平成291231日を以て廃止しましたが、その総括が「 誕生から死後までの意識 」あるいは「 付録 誕生から死後までの意識 」でありまして、これは亡くなった市民係長への追悼の小説であります。

 

「 自分探し 」をする中で、1、上杉謙信の「 死中生あり 生中生なし 」や、2、ゴーギャンの「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」とか3、般若心経の「 色即是空 空即是色 」や4、キリスト教の「 カエサルのものはカエサルに、神のものは神に 」とか、5、空海の「 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)」などという言葉に出会いまして、これらは、死に向かう人の言葉のように感じまして、これらを一連の言葉で解釈し直すことが、小林係長への供養になり、ひいては私の死への覚悟をさせてくれるのではないだろうかと考え、これを私の「 課題 」としました。

 

一連の物語にするために使った道具としての言葉は「 宇宙エネルギー 」と「 生命エネルギー 」と私の持論である「意識は電磁波の構造を持つ」という考えと、生気論の「 気(ki)」や西洋の思想である「万物は流転する」とか「 エネルギーは形を変えるが消滅はしない 」(エネルギー保存の法則)という考えでした。

 

それらを使い、上述の言葉を、とかく批判の対象となる日本の神仏習合(明治維新に伴う神仏判然令以前100年も日本に続いていた)のもとに一連の「 物語 」として構成しようとしたのが「 誕生から死後までの意識 」という電子書籍でして、これはあくまでも小説で、私の「好き勝ってな老人の話」というブログの総括、つまり「 自分探し 」の総括ですので、鼻で笑われても文句は言えないシロモノです。

 

B)   私の解釈

 

私の小説の中では、エネルギーと気(ki)は、同義です。

物語のあらすじは、生殖により、「 宇宙エネルギー(気(ki)) 」(自然エネルギーと同義)が生き物を生かす「 生命エネルギー(気(ki)) 」に「 形 」を変えて、生き物のDNAに応じて、電場が磁場を生むようにエネルギーが意識を派生させ、右脳から空間意識を左脳から時間意識を派生させて「 誕生 」し、その後、脳が自ら作った「 時間 」や「 空間 」という概念で、経験した衝撃(エネルギー)を出来事の「 因果関係 」という「情報」として保存し、深層意識に蓄積し、自分が今後生きるための、無意識で流れるものである「 能力 」とし、日々、流転する宇宙エネルギーの気(ki)に生命エネルギーの気(ki)を呼応させて、その気(ki)を意識層から無意識層に貫く時間軸である左脳と空間軸である右脳を通じて、これまで蓄積した、無意識で流れる自分の可能性である「 能力 」を呼び起こし、そして行動に至ると考えます。(意識は電磁波の構造を持つ)

 

 

肉体と意識との統合を「 霊 」と解釈します(人間が霊長類とよばれる)が、「 霊 」は人間が考えた概念であるという点で、「 意識 」であり、「 霊 」の目指す所は「 人格の完成 」であり、ブッダがその象徴でしょう。

「 仏 」がブッダで「 覚者 」や「 悟った者 」であると解釈しますと、悟ることは「 人格の完成 」と言えましょうが「 神 」(エネルギー)になったとは考えませんので、ブッダの思想である仏教には「 神 」になる教えは無いと考えます。

神風特別攻撃隊員を死地へ向かわせる際、その命を下す上司が「 死んで神になれ 」と言ったらしいですが、戦死すれば靖国神社の桜になるのではなく自分を産んでくれた故郷の自然エネルギーに戻ると私は思いますから、人間はすでに神の子とする私の本意ではないですが、「神」を自然エネルギーとするのであれば、その言葉は正しいということになります。

 

 

「 生命エネルギー 」から派生した「 意識 」は「文化」という違った形になり、生きている他者の可能性となりますが、「生命エネルギー」の終焉である死によって、意識と肉体からなる「 霊 」はその結合を解き、意識は文化として社会に残り、肉体は屍と「 宇宙エネルギー」(自然エネルギー)に分離し、前者は地球の土に、後者は地球を取り巻く「大気」に混じるだろうと思います。

私は「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)を「 神 」と解釈し、日本の宗教である神道の「八百万の神」を自然エネルギーであると解釈し、神(自然エネルギー)と人間とを取り結ぶ場所が「 神社 」であり、人間は等しく神の子として生まれ、生存中は人格の完成である「 仏 」を目指すべきと考えます。

このように、神仏が習合したもの、宇宙エネルギーと生命エネルギーが一体となったものが人間であると思います。

今の私は「宇宙エネルギーの気(ki)」の結晶に過ぎず、台風などの「 現象 」と同じ「 現象 」であり、台風が消滅すればエネルギーに戻るように、現象である私も、死ぬことにより、私を産んでくれた「宇宙エネルギーの気(ki)」に戻るだろうと考えます。

 

 

C)   課題に対する私の解釈

 

この循環が、上述の2,4,5、の言葉の内容であり、1、の言葉はその経過を示すものと解釈しています。


ただ、もう一つの3、の言葉は、「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)の循環であると捉えて、西洋のエネルギー保存の法則や万物は流転するという思想で解釈してみました。

この3、は「 存在 」(真理)を、脳の産物である「 時間 」が混じった「 実体 」の観察を通して認識することが可能であるかについて疑問に思うので、「 第四章、実存主義から得たもの 」の中で「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと書きました。

これらの解釈の様子は、電子書籍で該当箇所をご覧ください。

また、3、の言葉は「 般若心経 」の一節ですが、テレビなどを視聴しますと、山岳信仰に現れる山伏が、山岳が持つ自然の霊力を身に付けるため日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破し、山伏修行をする際、霊山の中に設けられた祠で唱える経文が「 般若心経 」であることは、古代の山伏たちも、その経文が自分も含んだ自然エネルギーを対象にしていると考えていたのではないかと、私には思えます。

 

私の力はここまでであり、皆様の力による更なる進展を期待しています。

kandk55
作家:高口克則
付録:誕生から死後までの意識
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