(4) 五軒長屋での生活 さらに
やはり入学前のことだが、当時は虫下しなる薬をときどき飲まされた結果、回虫が虫垂にはいりこんでしまった。
これに関して、また別の場面が思い出されたので、ついでに記しておこう。
もっと幼い頃、祖父の家で、私はどこかへ行こうとしてひとりで石垣のある道を歩いていた。ところどころにスイバと呼んでいたピンクの花が隙間から咲いていて、その茎を吸うと酸っぱくて美味しかった。
と、なにか異様な感じがした。お尻だ。なにか突き出てくる。私は肌着の上からそれをつまむという事態になった。
急いで家にバックした。未婚の叔母たちがいて、パンツを下ろし、そいつを引っ張り出した。
彼女らは私を乳飲み子の頃から世話して、のちの子育ての練習を十分積んでいた。
またついでにこの記憶を辿ろう、年上のミエ子叔母は気持ちの良い笑い顔とさっぱりした気性、頼り甲斐があった。
ある秋の日、私は痛いと騒ぎながら顔を見せた。ハゼ負けである。真っ赤に腫れ上がっていた。
ミエ子叔母はまずは消毒と思って、アルコールで拭いてくれた。するとアルコールに皮膚が反応してもっと赤くなった。(私はアルコールに過敏な質であったのだが誰も知らないことであった)
彼女は潔く自分の失態を認め、真顔で謝った。そんなところが好きだった、子供ながらに。
末っ子のエミ子叔母は、ともかく情が厚かった。愛情にしろ怒りにしろ、爆発的なところがあった。私はしかし平気で彼女を信頼していた。
彼女は中学生だったのだろう、修学旅行から帰ったエミ子叔母は、どうしてか、庭で、私に何かをくれるとニコニコしていた。美人だった。
後ろ手にいちごでも持っているかと、私が言うと、ますます可愛く笑った。
そしてもらったのは、7センチ高さほどの小さなセルロイドのキューピーさんであった。背中には緑の羽根がついていた。
私がどんなに喜んだか、ともかく嬉しかった。いつまでも捨てないで持っていたのだが。
人形で思い出した。
クマの縫いぐるみをしっかり抱いている、私の写真があった、一歳すぎだろうか。
おでこが突き出ていて、不機嫌そうな目つきで。
おそらくお古だったのだろうか、この唯一の縫いぐるみは、片方の目玉を抜き出すことができたのだ。
壊れている、という概念があったのだろうか、なにか満足できなかった。残念に思っていた。
その後も、人形とは縁遠かったらしく、なにひとつ記憶に残っていない。
そしてついに、二年生ごろだったろうか、私は人形を獲得した。しかも手製で。
どこからそんなアイデアが湧いたのかはわからない、ともかく、材料は揃っていたから多分母がお膳立てしたのだろうか。こうして作った。
丸くしたわたを白い布でくるみ、縛って顔を作った。
胴体と手足四本、いずれも針で縫い合わせたのを、くるっと表に返し、そこへ綿を詰めた。かなり難しい仕事だった。
その全てを多分後ろ側で縫い合わせた。
人形など持たない近所の女児がみんなして、この製作過程をながめに集まっていた。私はとても集中して作っていたが、それでも彼らの気配と熱気を感じた。
顔を描いた。ぱっちりした瞳の可愛い顔に仕上がった。その後の服作りのことは記憶にないが、熱心に遊んだはずだ。
2年ほどした頃だったろうか、母が自分で手作りして大きめの人形をくれた。
しかし、何と私にはその顔が気に入らなかったのだ。そして、翌年には、その子を友人にあげてしまった。「あげてよか?」と私は何度か母に尋ねた。母は辛そうに「よか」と言った。
まだある。
その後の人形は、有名なミルク飲み人形であった(父が定職についてしばらくしてから)。
瞳が閉じたり開いたりする。眠るとまつ毛まであり、ミルクを飲みおしめもさせて、排尿もした。買ってもらった時は丸裸だった。
この時ばかりは母が必死になって立派な衣装をたくさん作ってくれた。丸っこい胴体に合う裁断はむずかしかったことだろう。
学校から帰宅途中の私に、弟がおうちにいいものが待ってるよ、と告げた。それが母の製作物だったのだ。私はおおいに喜び感謝し、よく遊んだ。
人形用の小さなタンスを翌年のクリスマスに買ってもらうと、それが一杯になるほどの衣装持ちの赤ちゃんだった。
つい人形の話に夢中になってしまった。
テーマは虫下しだった。虫下しのせいで入学前の六歳の冬に虫垂炎になったのである。
トイレから出た途端、腹痛でしゃがみこんだ私に、両親が気づいた。ただならぬ様子だったので医者が呼ばれた。その頃には痛みは消えて、布団の中で私は歌など歌っていた。
それでも夜には大八車に寝かされて、星空の下を医院までごろごろと運ばれていった。手術。
父が見ていたそうだ。麻酔の副作用で私はなんどももどしそうになった。医者は腸をずらずらと出して見せ、腸が太いから?体が弱いかもしれない、と予言した。その腸をまたやみくもに押し込むので、不審に思った父が咎めると、ちゃんと元に戻るから、という返事だった。
その頃母は、近くに行こうとしても足がガクガクして歩けなかったそうだ。
父方の祖父まで見舞いに来て、私の頬にヒゲ面をこすり付けた。そんな愛情表現に私はとまどったものだ。
喉が渇いたこと、便秘になったこと、それは今でもはっきりした苦悩として覚えている。
私がかすれた声で「オミズ〜〜」とせがむと、父は、それを真似した。多分飲ませることができないので、困惑していたのだろう、と今思う。母が脱脂綿に水を含ませて、唇を濡らしてくれるのを、私は舐めた。
手術の跡ときたら、かなりの大きさだった。何しろ、体がどんどん大きくなるので、それにつれ跡も広がったのである。
そうそう、みんなの広場でその後起こったこと、これがもっと大きなテーマだった。
体が回復して、また五軒長屋の広場でゴザを敷いて女の子たちの人形遊びに参加していた。ふと気づくと、私の大事ななにかが(人形の服か、布切れか)見当たらない、すぐにまりこちゃんを疑った。
以前から人のものの区別がなかった。
案の定、彼女の手にそれがあった。
私はかっとなった。あっと言う間に怒りが爆発してしまった。
近くにあった竹箒を手にすると、なんと小さなまりこちゃんに殴りかかったのである。泣きながら罵りながら。
その時が私の七十年間唯一の怒りの爆発事件であった。自分でもわけがわからなかったと思う。
母がすぐに、裸足で家から飛び出してきた。私の体を心配したのか、この振る舞いに驚愕したのか。どちらもだったろう。
こんな「大事件」は珍しいわけで、その広場で魚を焼くやら、野菜を水洗いするやら、朝のうがいをするやら、みんな生活が筒抜けである。
誰かの知り合いの青年が、両手両足で横ざまに回転して見せ、最後はぶつかって何かを破壊したり、ミエ子叔母がキュウリを刻んでいるところへ、おっちょこちょいの私が、手を伸ばしたために、指を刻まれたり、あるいはうちで飼っていた黒猫が秋野さん宅のひよこを失敬してしまったこともあった。
おが屑のくるくるした中に仔猫を入れて吊るして遊んだりしていた弟が、この事件のために子猫を捨てると言う話になった時、転がって泣き喚いた。私も同じ気持ちだったが、弟の様子を見ると、それがまるで自分が捨てられるかのようだった。
父がその役目を果たすことになり、適当なところへおいてけぼりにしたらしい。すると祖父が、猫は三日したら戻ってくる、と予言した。果たして三日目の夜、にゃあ、と言って戻ってきたのである。
そしてしばらくは大人しくしていた、理由がわかっていたわけではないだろうに。しかし、味噌汁かけのご飯に飽き足らなかったのか、また秋野さんのひよこを狩った。もう断罪しかなかった。
父がまた、その役目を果たすことになった。私はその気持ちがよくわかった。したくてするのではないと。今度は猫は戻って来なかった。箱のまま川に流した、と父は言ったが、私はそうではないだろうと思った。
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