記憶の花束

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     (1)父に最初に出会ったのは


 7月に入ったある日、めっきり衰えた短期記憶能力のせいでその契機すら思い出せないのがもどかしいが、幼児に過ごした鹿児島市上荒田町の、当時の敗戦後の様子が何かのその拍子にくっきりと目の前に浮かんだものだ。


 「なんとたくさんのイメージが脳内に詰まっていることか」と、改めてその情報量に驚いた。

 それらは私だけのものであって、誰にも見えず、日の目をみることは不可能だ。この身が燃やされるまで保存されてそして永遠に消える。

 その後、徐々に何かを表現したい、という思いが強くなっていくのがわかった。それが何を書きたい思いなのか、なかなかわからなかった。

 前にも一度、人物像に限って散文詩のかたちで古い懐かしいイメージを書き表したことがある。

 そうだ、と浮かんだ。思いつくままに、記憶の中から立ち上がるままに、誰のためでもない自分のためにだが、回顧録などという無様なくくりではなく、記憶の花束のように一束、また一束を活けていく、そんなアイデアが形作られた。遊び半分だ。

 今日は父の命日である。平成元年に亡くなったから二十七年たつ。七十一というまだまだ惜しい年齢であった。
 すっかり失念していた。毎年のように忘れている。(父のことは折に触れ思い出し、居てくれたらなあ、と切に思うのに)

 だからその意味でまず父の記憶をまさぐっていくのもいいか。
 構成的な配慮はまだまったくない。私の海馬に任せていこう。


 
 多分昭和二十三年の六月ごろだ。母と私は祖父木原伊之助の小さな家に同居していた。

 満州で終戦間近に生まれた私を連れて、母は命からがら引き揚げてきた。父はソ連に抑留されていることがしばらくしてからわかった。


 幸運にも復員できた父を迎えに、鹿児島駅 に母と木炭バスで行った。初めて乗るバスである。

 その揺れるのが楽しくて嬉しくて、私にはトランポリン体験のようなものだった。それほど母は私を大切に、つまり脳が傷ついたりしないよう、刺激を控えて、動きを抑えて育てていたと言える。

 バスが揺れるのが楽しくて、有頂天だったこと以外はまったく記憶にない。

 次に浮かぶイメージの中で、やっと父が、お父ちゃんだと教えられた人物が姿を現わす。

 祖父の家の縁側に、中央の柱から右半分に、父は手をつき、外に立ったまま頭を下げた。何を言ったかは消えている。私はともかく、嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちだった。障子のところから、おそらく体をくねくねさせて眺めていたと思う。
  顔は不明瞭で、多分カーキ色の、服を着た体の形は残っている。

 それだけだ。かなり短い場面だが、印象的で嬉しい場面である。

 時系列で、父の姿をまとめるつもりではないのだが、コメントとして付け加えると、聞いた話ではその後私はすぐになついた。父は、出かけると必ず、なにかおみやげを買ってきてくれたせいらしい。

 もちろんそれだけではなく、そもそも優しいひととなりだった。私にとって、父はなんでも言うことを聞いてくれる親しい存在となった。



 この流れで、りんご箱の件を思い出した。

  今のように段ボールやプラスチックの箱が手軽に手に入る時代ではない。八百屋が果物などおがくずに詰めて仕入れるのは木の箱、いわゆるりんご箱、である。

 粗末なものなのだ。父の妹、私の叔母なのだが当時はまだ少女だった。彼女のために父が、実は不器用なのに、釘と金槌でりんご箱に棚を二枚とりつけてやった。庭で。

 それを見ていた私は、自分にも作って欲しいと言い始めた。絵本もおもちゃもほとんどないので、そんな棚の使い道を考えたわけではなかっただろう。

  父は、一つ作っただけで往生して、面倒臭がって渋った。私は決して諦めず、いつまでも頼み続けた。とうとう根負けして作ってくれるまで。そして私にはわかっていた、父はきっと私の頼みを聞いてくれると。希望を捨てず諦めないことだ。

 そのりんご箱は、結婚しても私と一緒だった。本箱として役に立った。ちょうどよかった。


 カバヤ文庫と花火大会

  最初の本はカバヤの児童図書だった。アンデルセンやグリム、戦後の子には宝物のような夢の本であった。

 どうしても、ある夏の夜のことが、帰りは頭が痛くなるほどに頭上にはじける大花火を堪能した夜が、今も記憶の中で光り輝いている。その場面には、幼児の弟もいたので数年経っている頃だ。


 錦江湾というのは向こうに桜島がゆうゆうと聳えている内海である。
 こちらの岸壁から向こう岸の仕掛け花火もくっきりと見えた。

 おにぎりなどもあり、ただ美しく驚きに満ちていた。おまけに特別にカバヤキャラメルもひとつずつ買ってもらっていた。

 美味しい上に、なんとどちらの箱にもちょうど都合の良い当たりカードが入っていたではないか。貯めていたカードとそろえると、これで私は2冊の童話本をもらうことができるのだ。

 その仕組みや、本の外見などはまったく記憶にない。もらった本もさだかではない。
 幸運を喜ぶ気持ちのみが記憶に定着している。

__


    (2) 家の記憶


 どうしてか、歳を取った今では滅多に夢をみない、ないしはみた夢をすぐに忘却する。

 たまに見ると、家さがし、ないしは家にいていろいろ苦労するという内容がほとんである。そしてこれは私の夢の大テーマであるらしい。他の人もそうなのだろうか。不明だが。

 なので記憶の中の家を検証してみよう。


 満州で両親が新婚生活を送っていた家の二重ガラスの窓から、荒野の果てに大きな落日が見えたり、仔猫をあずかって留守番していた母が、その窓いっぱいに現れた母猫の顔に絶叫したり、そのガラスの間に砂糖水を入れてときどき撹拌して氷菓子を作ったり、そんな他愛ない束の間の生活を、私は胎児として、お腹の中から感じていただけである。理論的にはそうだ。。。


 ゼロ歳時に住んでいたのは、武町という小山の中腹の祖父の家であった。それが宮殿であろうと天井のないあばら家(こちらの方であった)であろうと子供の心理では環境という価値に違いはない。

 天井がないのは焼夷弾とかの被害を考えてのことだったが、戦後になっても直すことができるわけではなく、星がみえたり雨漏りがするのであった。

 古いタンスには真鍮のわっかの引き手があり、畳がきしむとそれが懐かしく鳴った。

 食事は丸いちゃぶ台、土間にへっついというお馴染みの風景があった。

 庭には御不浄と、布袋葵の紫の花が美しい、大きな水槽があり、他の端には井戸と平石があった(そこで夏は行水するのである)。そしてにわとりたちがいた(にわとりは私の遊び友達である)。


 北向きにはいちごを植えるのに適したなだりがあり、ある時私が行方不明になったのだが、いちごを食べながらどんどん登ってしまい、帰れなくなって泣いていたそうである。

 南向きは、その高台から見ると 桜島が真正面に大きくその微妙な色合いをさらしていた。
 街並みと海も見えた。
 そこに4年間近く父代わりだった祖父と並んで立って、鯉のぼりがいくつか眼下に泳いでいるのを眺めた。


 道からここに来るまでの小径には、小笹と茶の木の生垣があった。

 幼心にそのどちらも美しいと思った。

 祖父が、井戸の中に降り立ち、掃除をしたこと、その井戸の中に大きな西瓜が浮いていたこと、縁側で並んで話をしている時、物差しが話題だったらしいのだが、私がそれを握って離さずうるさく何か言い募ったのであろう、祖父が少し激しくそれを奪い取ったことがあった。

 私は、そんな目に合ったことがなかったので、ぎょっとして固まってしまっていた。すると祖父は、メガネをずらした目で気にした風に、また笑いに紛らせようとするかのようにいたずらっぽく私を見返した。
 それで解消。そんな一瞬も浮かんでくる。

 祖母とは縁側でその膝にまたがって何するともなく過ごした。顔の産毛をさわったり、着物をはだけさせて乳首をしゃぶったりした。

 となりにはもっとひどいあばら家があった。
 私の曽祖母が住んでいた。私が行くと喜んで、なにかをあげようと躍起になった。一度は恐ろしい思いをした。やっと歩くほどの私におしっこをさせようと、うしろから抱えて縁側の外に突き出したのである。

 それ自体が怖かったのではない、子供ながらに彼女の体力が危ういことが感じられたからである。ぶるぶるする腕をぎゅっと握った。 

 後年、ここに母と住んだこともある。


 次にすんだ家は、なんともともと2階部分だったのを地面に下ろして貸家にしたものであった。

 当時は家が無くて苦労したという。父方の祖父母、それに父の弟妹たちとの共同生活であった。
 ここで母ははじめて嫁の立場に立ったのである。

 そこもまだ土間がありへっついがあり、井戸があった。町内には五軒の平屋がありそのまん中が広場になっていたので、子供達の遊び場にちょうどよかった。家の境の垣根などはない。

 そこで知り合った花は、鳳仙花と百日紅である。

 小さな濡縁があったが、作りが雑であまり用をなしていなかった。
 この広場で父がりんご箱の本棚をしょうことなしに、その二つ目も作ったのである。


 祖父たちが、新築の家に越していくと、母の妹の一人ミエ子叔母がその一間で新婚生活を送った。

 それまでとは打って変わって、新しい家具があるその部屋にときどき忍び込んだり、夕食を食べている夫婦の邪魔をした。
 ごま塩茶漬けをご相伴にあずかった。あるいは朝一番に、はいりこんで寝具の中のふたりを慌てさせた。


 車の通る道路の向こうには「コウキブ」と呼ばれる工場があり、その騒音といったらなかった。

 電車を修理するところだった。

 終戦後最大の台風がきたとき、私が窓から眺めていると、コウキブの屋根の一部が風にあおられて宙を飛んで行った。その夜はどこかに避難することになったが覚えていない。

 台風一過の風景には、妙に心踊る荒々しさを感じた。

 その後、私たち一家は父に就いて転居をくりかえす生活となり、私の言葉も、鹿児島弁という個性の強い抑揚は残りながらも、方言が入り混じり無国籍のようになってしまった。

__


    (3)弟の誕生

 とりあえずしばらくは故郷鹿児島の記憶にとどまろう。


 五軒の集落、というと田舎めくが、市電の終点のそば、市街地ではあった。

 父が帰国してのち、四歳すぎには祖父の家から引っ越したのだと思う。

 弟が生まれていて、私にとっては生まれて初めての困惑状態となった。

 長子のショックである。それまで家族の中心であることを疑いもせず、兄弟の生まれることを楽しみにするように言い聞かされて待っていたのである。

 いざその瞬間から、私がどんなに驚き落胆し不可解に思ったことか、想像にあまりある。

 幸いにもそんな哀しみと孤独感にはかすかな記憶しかない。父がとても喜んで弟のことを語っているとき、複雑な想いが湧いた。その場面は記憶している。夢に見ることもあった。


 さて、今でも近所の子供たちの名前を覚えていたとは意外なのだが。

 上床くにこ、まりこ姉妹。桶谷けいこ。岡野かずこ。秋野れいこ。その兄弟たち。
 ともかくワイワイと居た。
 困ったことに、私には子供との付き合いがそれまでなかったせいもあって、一緒に遊ぶのが少し苦痛だった。
 
 最初のつまづき。
 目隠し鬼ごっこをした。私が鬼のとき。いくら手探りで探ってもだれも見つからなかった。いつまでたっても見つからず、とうとう泣き出してしまった私を母が救い出した。
 いい加減に目隠しをとって、文句を言えば良かったのだろうがそんな知恵がなかった。
 
 しかし利点も生じた。
 私は絵本をいくつか持っていて、字は読めないがテキストを丸暗記していたので、近所からのリクエストがあったのである。
 自分では記憶していないがそんな読み聞かせ会があったそうだ。

「あそんが~(あそぼう)」と、くにこちゃんがよく誘いにきた。少し年上の優しい少女だった。

 上床さん、くにこちゃんの父親は大工だった。
 薄暗い家にもよく上がって遊んだが、雷雨の日があってみんなで固まって震えていたこともあった。
 あるいは病気遊び、という特別な趣向もあった。
 誰が言い出したのか、奇妙にみな真剣で静かにふるまう。
 病気の誰かを看病するというのが趣旨である。それには妙などきどき感が伴っていた。少し性的な意味合いも感じられた。できるだけすみっこに巣のようなところをみつけてそれは行われた。見たところはただのお世話の模倣だったが。


 職業まで覚えているのもおかしいが。

 秋野さんは教師で奥さんはお寿司を作る内職をしていた。
 早朝からいい匂いが漂うのに引き寄せられて、子供たちが欲しそうに立っていたが、奥さんはもちろん一粒もくれなかった。

 秋野さんは足を骨折して長く臥せっていたのだが、奥さんを叱咤する声がよく聞こえた。

 そこには、あっちゃんというひとつ年上の男の子もいて、この子が校庭で足の爪をはぐ怪我をした。

 それは夏休みの朝のラジオ体操のときの事故だったので、近所の仲間が保健室までついていった。
 オキシフルで消毒されて、あっちゃんが涙をこぼし足を震わせながらも、一声も発しなかったのを私は観察していた。男の子を意識した最初だっただろう。

 岡野さんはマル通の運転手だった。日本通運だ。
 猿が可愛く進化した、というような顔で、父親によく似た息子のひろしちゃんのことをミエ子おばが、かわいか~とよく言った。奥さんは出産した翌日には庭で洗い物をしていたので、母が驚いていた。

 最後の桶谷さん宅とは、実は前にも触れたように一軒の二階建家屋の上下だった。そのせいで私の中に仲間内という感覚は生じたと思う。

 職業はよくわからなかったが、当時トヨタのロゴで、トと大きく書いた中に小さくヨタと入っている図案があった。これは私がたいそう気に入っていた図案だった。とても気が利いていると感じたのだ。それが桶谷さんと関係しているというおぼろな記憶がある。

 けいこちゃんは、れいこちゃん、まりこちゃん同様私より年下だったが、その中でも少しとろい感じがあった。子供がそんな違いをすぐに認識するのには驚くが、誰が賢くて誰がいいなりになるか、すぐに見分けるらしかった。
 (思い出したことがある。年下のれいこちゃん、ある時、遊びに行って家の中に私もいた時、お風呂から出てきた裸のれいこちゃんが、あっちゃんに倒されて床にうつ伏せになりお尻をあげたまま痛がっていた。そこには肛門がもろに見えていて、私はドキッとしたのである。それがどうしてか可愛く見えた。不思議だなと自分でも思った)

 くにこちゃんと私はある時期けいこちゃんを困らせた。何かを川に捨てたことを咎めて、川に向かって百回ごめんと言わせたのである。モラハラである。
 しかし、私はその時の自分を恥じてまもなく擁護側になった。

 同様に、アリを意味もなく潰して遊んだことがあった。この時も後に私は自分を咎めて、二度としなくなった。子供の中にもはっきりした正義感はあるらしい。

 私の記憶の中には、ドブ川に向かってごめんなさいを繰り返しているけいこちゃんの横顔、私の指と黒いアリの行列、その映像が残っている。そこへ解説の記憶が埋め込まれているような感じだ。


 五軒の集う広場で起こったこと、なお2、3。
 岡野さんのかずこちゃんが幼稚園に行くことになった。 

 小さな丸っぽいカバンを肩からかける。中には小さな出席手帳が入っている。私は羨ましくてたまらなかった。今は手元にないが、そんな私たちが並んで写っている写真があった。

 翌年4月には、父がまだ無職だったせいで通園は叶わなかったが、とうとう両親は根負けして途中から通わせることにした。

 私の夢みていたのは、出席手帳に毎日貼ってもらえるシートであった。6月はかたつむり、7月はひまわり、という風な。


 ところが、思わぬ伏兵がいた。

 名前は忘れたがBくんとしておこう、一人の男児が、難癖をつけて私を泣かすようになった。
 私は殊の外それが恐ろしくて、帰り道にその姿があると縮み上がった。

 このことと関係があったのかはわからないが、ある大雨の日に、うちには傘がなかったので帰りは父が傘を買って迎えに来るという約束になっていた。

 私はそれを待つことができずに、かなりの距離を濡れて帰り、母の胸にわっと泣きついた。父はまもなく帰ってきてこれまた少し立腹していた。

 本当の理由を私は言わずに(子供としてもなんらかの矜持、あるいは心配をかけたくない、大げさにしたくない、という配慮があるのだろうか)、幼稚園では何も勉強を教えてくれないとか理由をつけて(その記憶はない、両親がいうところによるとそうだ)数ヶ月で通園を辞めたのである。

 なんとも気恥ずかしい出来事となった。

 これには後日談がある。翌年、新入生となってクラスにはじめて入っていくと、何と、あのBくんがニヤニヤしているのと目があった。愕然とした。顔色が変わったかもしれない。

 それでも誰にも何も言わず、通学した。
 おかしなことに、Bくんはもう私に構わなかった。一度も喋ったこともなかったし私も気にかけなくなった。数ヶ月のうちに、彼も成長したらしかった。

__


   (4) 五軒長屋での生活 さらに

 やはり入学前のことだが、当時は虫下しなる薬をときどき飲まされた結果、回虫が虫垂にはいりこんでしまった。

 これに関して、また別の場面が思い出されたので、ついでに記しておこう。

 もっと幼い頃、祖父の家で、私はどこかへ行こうとしてひとりで石垣のある道を歩いていた。ところどころにスイバと呼んでいたピンクの花が隙間から咲いていて、その茎を吸うと酸っぱくて美味しかった。
 
 と、なにか異様な感じがした。お尻だ。なにか突き出てくる。私は肌着の上からそれをつまむという事態になった。

 急いで家にバックした。未婚の叔母たちがいて、パンツを下ろし、そいつを引っ張り出した。
 彼女らは私を乳飲み子の頃から世話して、のちの子育ての練習を十分積んでいた。


 またついでにこの記憶を辿ろう、年上のミエ子叔母は気持ちの良い笑い顔とさっぱりした気性、頼り甲斐があった。
 ある秋の日、私は痛いと騒ぎながら顔を見せた。ハゼ負けである。真っ赤に腫れ上がっていた。

 ミエ子叔母はまずは消毒と思って、アルコールで拭いてくれた。するとアルコールに皮膚が反応してもっと赤くなった。(私はアルコールに過敏な質であったのだが誰も知らないことであった)

 彼女は潔く自分の失態を認め、真顔で謝った。そんなところが好きだった、子供ながらに。


 末っ子のエミ子叔母は、ともかく情が厚かった。愛情にしろ怒りにしろ、爆発的なところがあった。私はしかし平気で彼女を信頼していた。

 彼女は中学生だったのだろう、修学旅行から帰ったエミ子叔母は、どうしてか、庭で、私に何かをくれるとニコニコしていた。美人だった。
 後ろ手にいちごでも持っているかと、私が言うと、ますます可愛く笑った。

 そしてもらったのは、7センチ高さほどの小さなセルロイドのキューピーさんであった。背中には緑の羽根がついていた。
 私がどんなに喜んだか、ともかく嬉しかった。いつまでも捨てないで持っていたのだが。



 人形で思い出した

 クマの縫いぐるみをしっかり抱いている、私の写真があった、一歳すぎだろうか。
 おでこが突き出ていて、不機嫌そうな目つきで。
 おそらくお古だったのだろうか、この唯一の縫いぐるみは、片方の目玉を抜き出すことができたのだ。

 壊れている、という概念があったのだろうか、なにか満足できなかった。残念に思っていた。

 その後も、人形とは縁遠かったらしく、なにひとつ記憶に残っていない。

 そしてついに、二年生ごろだったろうか、私は人形を獲得した。しかも手製で。

 どこからそんなアイデアが湧いたのかはわからない、ともかく、材料は揃っていたから多分母がお膳立てしたのだろうか。こうして作った。

 丸くしたわたを白い布でくるみ、縛って顔を作った。

 胴体と手足四本、いずれも針で縫い合わせたのを、くるっと表に返し、そこへ綿を詰めた。かなり難しい仕事だった。
 その全てを多分後ろ側で縫い合わせた。

 人形など持たない近所の女児がみんなして、この製作過程をながめに集まっていた。私はとても集中して作っていたが、それでも彼らの気配と熱気を感じた。

 顔を描いた。ぱっちりした瞳の可愛い顔に仕上がった。その後の服作りのことは記憶にないが、熱心に遊んだはずだ。

 2年ほどした頃だったろうか、母が自分で手作りして大きめの人形をくれた。

 しかし、何と私にはその顔が気に入らなかったのだ。そして、翌年には、その子を友人にあげてしまった。「あげてよか?」と私は何度か母に尋ねた。母は辛そうに「よか」と言った。
 まだある。

 その後の人形は、有名なミルク飲み人形であった(父が定職についてしばらくしてから)。

 瞳が閉じたり開いたりする。眠るとまつ毛まであり、ミルクを飲みおしめもさせて、排尿もした。買ってもらった時は丸裸だった。

 この時ばかりは母が必死になって立派な衣装をたくさん作ってくれた。丸っこい胴体に合う裁断はむずかしかったことだろう。
 学校から帰宅途中の私に、弟がおうちにいいものが待ってるよ、と告げた。それが母の製作物だったのだ。私はおおいに喜び感謝し、よく遊んだ。

 人形用の小さなタンスを翌年のクリスマスに買ってもらうと、それが一杯になるほどの衣装持ちの赤ちゃんだった。
 つい人形の話に夢中になってしまった。


 テーマは虫下しだった。虫下しのせいで入学前の六歳の冬に虫垂炎になったのである。

 トイレから出た途端、腹痛でしゃがみこんだ私に、両親が気づいた。ただならぬ様子だったので医者が呼ばれた。その頃には痛みは消えて、布団の中で私は歌など歌っていた。

 それでも夜には大八車に寝かされて、星空の下を医院までごろごろと運ばれていった。手術。

 父が見ていたそうだ。麻酔の副作用で私はなんどももどしそうになった。医者は腸をずらずらと出して見せ、腸が太いから?体が弱いかもしれない、と予言した。その腸をまたやみくもに押し込むので、不審に思った父が咎めると、ちゃんと元に戻るから、という返事だった。

 その頃母は、近くに行こうとしても足がガクガクして歩けなかったそうだ。

 父方の祖父まで見舞いに来て、私の頬にヒゲ面をこすり付けた。そんな愛情表現に私はとまどったものだ。

 喉が渇いたこと、便秘になったこと、それは今でもはっきりした苦悩として覚えている。
 私がかすれた声で「オミズ〜〜」とせがむと、父は、それを真似した。多分飲ませることができないので、困惑していたのだろう、と今思う。母が脱脂綿に水を含ませて、唇を濡らしてくれるのを、私は舐めた。

 手術の跡ときたら、かなりの大きさだった。何しろ、体がどんどん大きくなるので、それにつれ跡も広がったのである。


 そうそう、みんなの広場でその後起こったこと、これがもっと大きなテーマだった。

 体が回復して、また五軒長屋の広場でゴザを敷いて女の子たちの人形遊びに参加していた。ふと気づくと、私の大事ななにかが(人形の服か、布切れか)見当たらない、すぐにまりこちゃんを疑った。

 以前から人のものの区別がなかった。 

 案の定、彼女の手にそれがあった。
 私はかっとなった。あっと言う間に怒りが爆発してしまった。
 近くにあった竹箒を手にすると、なんと小さなまりこちゃんに殴りかかったのである。泣きながら罵りながら。

 その時が私の七十年間唯一の怒りの爆発事件であった。自分でもわけがわからなかったと思う。
 母がすぐに、裸足で家から飛び出してきた。私の体を心配したのか、この振る舞いに驚愕したのか。どちらもだったろう。


 こんな「大事件」は珍しいわけで、その広場で魚を焼くやら、野菜を水洗いするやら、朝のうがいをするやら、みんな生活が筒抜けである。

 誰かの知り合いの青年が、両手両足で横ざまに回転して見せ、最後はぶつかって何かを破壊したり、ミエ子叔母がキュウリを刻んでいるところへ、おっちょこちょいの私が、手を伸ばしたために、指を刻まれたり、あるいはうちで飼っていた黒猫が秋野さん宅のひよこを失敬してしまったこともあった。

 おが屑のくるくるした中に仔猫を入れて吊るして遊んだりしていた弟が、この事件のために子猫を捨てると言う話になった時、転がって泣き喚いた。私も同じ気持ちだったが、弟の様子を見ると、それがまるで自分が捨てられるかのようだった。

 父がその役目を果たすことになり、適当なところへおいてけぼりにしたらしい。すると祖父が、猫は三日したら戻ってくる、と予言した。果たして三日目の夜、にゃあ、と言って戻ってきたのである。

 そしてしばらくは大人しくしていた、理由がわかっていたわけではないだろうに。しかし、味噌汁かけのご飯に飽き足らなかったのか、また秋野さんのひよこを狩った。もう断罪しかなかった。

 父がまた、その役目を果たすことになった。私はその気持ちがよくわかった。したくてするのではないと。今度は猫は戻って来なかった。箱のまま川に流した、と父は言ったが、私はそうではないだろうと思った。

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