一大事の刻

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二 誕生と敗戦の一大事  その二

 頼子も、他のすべての人間と同じく初めての子として、母親をほとんど殺しかねないほどの難産で生まれたのだと言う。眠り込もうとするナミのほおに平手打ちを食らわし、葡萄酒を飲ませた。それは頼子の父頼光であった。

 そして頼子は頭上の窓をくぐり抜けたのであった。
 ナミが満州の地へ、写真花嫁として嫁してきてから一年二ヶ月ほどたったときである。産婆がいて自宅だった。その日は終戦の年、昭和二十年七月も終わろうとするころだ。


 「凄い出血でしてねえ、綿花だけはたくさん集めてあったし、おしめもたくさん縫っていたんですよ。主人は軍人でしたからほとんど居りません。八月に入ってからでしたかねえ、馬丁さんが主人の知らせを持ってきました。

 多分最後の列車が今夜出るから、すぐに全てをおいて駅に行くように、ってねえ、そんなどうしたらいいか、私もお嬢さん育ちだったので、気が利かなかったし、身体はまだめちゃくちゃでねえ」

 今日は、新しいケアマネージャーが講釈を拝聴するはめになった。

 彼女らは、よく訓練されていて、決してお年寄りをないがしろにしない、それにナミの話は珍しくもある。彼女が身を乗り出し、相づちを打つごとに、ナミは一層自分を励ます。

 声がかすれても一通りを喋り続けた。

 しばらくは自分はお役御免だと思い、頼子は食器を洗いに立った。

 最後の列車に乗れたことが恐らく頼子の命運を決めた、その後の引き揚げ者の地獄の旅や、運良くも中国人に育てられたいわゆる戦災孤児たちの望郷のあるいは失望の日々、そんなことを考えるのを常として。


「八月五、六日のはずですけど、はっきり言えないんですけども、とりあえず赤ちゃんとおしめと綿花だけ包んで駅まで行ったらば、もうたくさんの軍関係者の家族が筵に座っていました。お偉いさんだけはたくさん家財を運んできていたので、どうしてだろうと疑問に思ったり、やはり扱いが違う、と思ったり。お産のために親戚のキミさんが来ていて助かったんですよ。寝具を後から運んでくれる手はずになっていましたが。

 ともかくもそこに座っていると、やっと主人がやって来ましたよ。ただ短く、後から追いかけるから列車で出発するようにって。そのままソ連に捕虜になったんですけどね。私は呆然とその後ろ姿を見送ったものです。

 でもねえ、それは貨車だったんですよ。無蓋のね、そうそう、屋根無しです。はじめの頃は雨が降らなかったのは良かったですけども、夏ですから日差しがねえ。頭からおしめを被って、その陰に赤ちゃんを入れて護って。それからは雨ばかり降ってまた困ってねえ。たいてい夜走るんです。昼間はあちこちに止まるんです。その時に水があればおしめを洗えるけれども、無ければおしっこだけのは勿論、うんちのおしめも拭いて乾かしてまた使うんです。

 私は若かったけども、出血が止まらないのでたちまち弱ってしまって、屋根のある貨車にそのうち入れて貰いました。着物に血がついてもそのままで。ええ、母乳はいくらか出ていたのでしょう。ほんとの新生児だったのでかえって強かったんでしょうかねえ。幼児はくさったおにぎりなんか食べさせられて何人も亡くなりました。思い出しますよ。コーリャンのはいったおにぎり、割ると糸を引くんです、納豆みたくに。

 辺りには夾竹桃の木が並んでいましたっけ。赤い花が今でも目に浮かびます。

 主人はいつ追いつくというのか、全くわからなったけどもそれを当てにしていました。 
 
 汽笛がぴーっと鳴ると、赤ん坊がびくっとするんですよ。この子をどうしても自分は守り抜くのだって思いました。」


 ケースワーカーの茂田さんは少し涙目になって深く頷いた。

 ナミはただ語るのに夢中になっているので感情移入していない。母親がこの一念で危うい帰路を耐えてきたことが、頼子には最近実感できる。小さな一言がもつ意味の大きさ、本人にも周囲にもしっかり分かるとは限らないけれども。


「そんな風にねえ、夜昼構わず走ったり止まったりして、朝鮮半島の平壌に着きました。しばらく汽車は動く気配もなくて、何だか様子がおかしい日でした。外に出るな、といって兵舎のようなところに待機してた時、天皇陛下のお言葉があるって言う話でした」

「十五日だったんですね!」

「そうです。いよいよラジオから声が流れてきましたけど、何も聞き取とれませんでしたよ。日本語とも思えなかったです。周りではみなが泣き崩れていました。でも私なんか、感情も無くしていたみたいで、嬉しくも悲しくもなくて、ぼんやり見回していたと思います」

 臣民が初めて聞く天皇の声とその言葉、その文章は、まさに人間離れしていたことだろう。頼子にとっても、今は歴史の一部となっているその日以後のすべての時間を自分が生きてきたことを、感慨深く再認識させられる場面だった。


「釜山までがまた遅くてねえ、やっと海を渡ろうという段になったんですけど、そこで私はもう諦めようかと思ったんです」
「どうしてまた?」

「海が荒れていたんです、そして船にかかった一本の板が、細い、桟も何も打って無い板が、揺れているんですよ、濡れているんですよ。この子を抱えてどうしてこの板を登っていけよう、すぐに海に落ちてしまう、もう恐ろしくて恐ろしくて、自分が泣いていたのか叫んでいたのか、わかりもしません、この板を越えなければ帰ることはできないとわかっていてもねえ」
「うわあ」
と茂田さんは言った。

「そしたら、1人の兵隊さんが私の赤ん坊を抱きとって船に登って行くじゃありませんか。1人になって足をかけてみたけど、板も船も海もそれぞれに揺れている、真っすぐにバランスをとって歩いて行くのは不可能に思えました。絶望的でした。そしたらねえ、また兵隊さんが現れて、私をおぶってくれました」
「よかったですねえ」

「はい、本当におかげさまで。それからねえ、今度はでも船の中がまた大変で。トイレのかわりにバケツがおいてありました。それが船の揺れるのに合わせてあちこち動くのですよ、勿論中身も飛び散るし。一緒にいたキミさんがつと寄ってきて、ほらあそこの布団だけど、ナミさんのじゃなかった?と言います。若い女性がちょうどお産をしたところでした。ええ、私の布団でした。主人が後から送ってくれたんですね。あ、そう言えば、出発した次の日くらいに、また主人が人を寄越したんです」


 この話は、流石にナミは誰にでも話す訳ではない。
 頼子は、母がどこかのかばんにしまい込んでいるはずの、父親の赤鉛筆で書かれた遺言書を、二度見せてもらったことがある。

 爪と髪の毛が添えてあった。これからソ連軍と戦うことになる、どうなるかは誰にもわからないが、子供をしっかり育ててくれるように、また、万が一の場合は、どんな振る舞いをすべきか軍人の妻として理解していることと思う。そんな内容だったと思う。


 しかも、これが書かれた頃、実は軍人の家族をあらかじめ殺害してしまうことになっていたのだという。それは父親の頼光自身がナミに話したそうだ。

 満州軍の司令官たちが、そんな決定を下した。しかし、若い将校たちがそれに反対したのだ。家族たちの生き延びるチャンスを天に任せよう、それを勝手に決めることはできない、と反対し、貫いた。
 そうして今までの頼子の人生もあるのだった。

三 節目ごとの一大事

 人生の一大事というものが誰にもある。
 七十二歳になった頼子が振り返ってみると、まずはやはり誕生と引き揚げである。

 次は自身が長男充を出産したあとの大出血であった。

 少女の時以来二十年間愛した人との離婚もそこに数えられるが、最も痛手だったのはその充の自死である。彼は二十七歳、頼子は五十四歳であった。自殺者三万人の時代が始まったのである。

 十年後、頼子六十五歳の時にまた一大事がやってきた。民族大移動と頼子は名付けた。


 頼子の弟敦夫に不治の病が見つかった。膵臓癌である。

 その頃頼子の夫、和彦は持病の心不全の悪化のため、職を辞することになった。

 社宅から引き払うにつけても、近くに住む母のナミの処遇も考えなければならない。

 間も無くもう一つの問題が加わった。頼子の末っ子公彦の家庭に手助けが必要になった。一歳の悠斗を育てることが嫁の景子に困難になったのである。


 ある日、頼子は敢然と決意した。和彦の意見などには耳を貸さず、関西から関東への転居を決めて実行に移したのであった。

 末期癌の敦夫は千葉県に住んでいたので、母親のナミをその近くの施設に入れた。有無を言わさずである。

 末っ子の公彦は対岸の羽田近くに住んでいたので、両方の中程、千葉市の大学病院にも通うことを考えて、湾岸の市原市に平屋の小さな家を借りた。それもインターネットで、条件を入れて唯一ヒットした物件である。バス通りが近かった。


 ナミの八十八年の生活の跡を整理し、持っていくもの、無料で引き取ってもらえるもの、ゴミないしは市の引越し荷物で廃棄するものに分けて連絡を入れ、処理し、あるいはシルバー人材センターに手伝いを頼み、最後はいよいよ家具などを壊すバリバリという音、紙くずの散る様子に心を痛めながら、一生の儚さを思った。


 同じことがより大規模に頼子の暮らしにも起こった。頼子が起こしたのだ。夫の和彦はほとんど加勢することはできない。

 二冊の手帳が計画や電話番号で埋まっていき、そのあともさらに埋まり続けた。


 冬の終わろうとする三月十日、頼子と和彦は初めて東京湾を越えるためにアクアラインを通り、借家に入った。夜が明けると間も無く引越し荷物がやってきた。

 計画してあった通りに全ての家具が配置され、後は段ボールが塔のように部屋じゅうに林立していた。電気屋がきてクーラーを取り付けていた。

 その時、かすかに揺れた。

 たちまち足元がぐらつくほどの揺れが来た。やがて収まることと思って見回しているが一向に弱まらず、脚立に乗っていた電気工が、ちなみに彼も頼子たちも神戸の地震にどちらも出会ったことで話が弾んでいたのだが、こりゃいかん、と地面に降りた。

 外に出ると、大きな電信柱が円を描いてゆらゆらと動いていた。駐車してある車が音を立てて揺れていた。
 ガスの匂いがして、北側の空に爆発音とともに火玉が上がった。東京湾沿いのコンビナートである。

 二〇一一年の三月十一日になっていた。

 余りのことに、怖がりの和彦がこの場を離れようと車を出した。コンビナート群を避けて、南へ十キロほどの駐車場で、振り返ると空いっぱいに火の玉が膨れつつあった。どこまでも大きくなっていき、見上げる人々の頭上を覆った。無音。
 頼子は、爆発はやめて、と思った。しかしそれは爆発した。幾重にも爆音が響いた。


 その近くのものは全て燃えてしまうのだろう、あの貸家もきっと。
 全てが、和彦の薬も全てがあそこにあったのに。和彦は虚無的な笑いを響かせ続けた。

 それからのことは、頼子にとってその時までの心配が無駄であったり、逆に知らぬが仏を地でいくような、壊滅的な福島での被災にただ愕然とするばかりの日々であった。
 つまり頼子たちには幸いにもこの厄災を無事に切り抜け、この地で生きる日々がこうしてともかくも始まったのであった。

四 ナミの一大事

 そこ、房総半島の小都市は、期待もあきらめもなくただ必要に即した引越しであったにもかかわらず、意外なほどに住みやすい環境であった。すい臓がんでただ一人の弟は地震の後の夏を超えずに亡くなったのだが。

 漫然とした不如意の、ぼんやりの頼子らしい日常がありがたいとも思うことなく三年ほど続いた。

 そこへ、これまでの不如意が先鋭化して来た。次の一大事が出来してきたのである。

 頼子にとって、介護している和彦の生き方と自分の不自由とはどうしても正面衝突するものであった。彼に自分の人生を捧げることが無意味であった。当然、夫婦生活は破綻していたし、それゆえの憎悪をお互いが感じていた。

 ほとんど同時期に、和彦が頓死寸前の状態と診断されて入院、頼子が原因不明の腰痛を起こし、連動して、施設にやっと慣れた母のナミが不思議な眠り病にかかった。

 しかし、三人ともになんとか生き延びた時、初めて頼子に、まずは母親への責任感が目覚めた。


 父の頼光が亡くなって二十数年たつが、敬愛する父を、その頃やっと認定されたアミドイロージスという難病で苦しませたことを常々苦にしていた頼子が、母を無事に穏やかに死なせる、あの世への引導を渡す仕事を引き受けようと急に決意したのである。

 そこには、明らかに長年頼子の中に積もって来た父親と長男充への思い、また仕事を成し終えずに逝った弟への思いも働いていた。彼らとの繋がりが消えてしまうということを受容できなかったのだろう。自分でも不明な心の動きがあった。
 

 時は冬であった。ある朝、頼子は長男の充を助け得なかったこと、離婚が遠因であっただろうという罪悪感を確認しながらまた歩いていた。

 突然、頭の上から何かが、声が、意味が、降って来た。

「あなたに罪はありません」

 それを頼子は、呆然とはしたが、一瞬のちにすぐに信じた。

 そうであるには全ての解釈が変化しなければならないが、きっと変化すべきなのだ、という意味において頼子はそのことを信じた。
 それは、壮大な超越的存在の慈愛への信頼であった。

 この世の全て、星の一つ、虫の一つ、花の一つに至るまでその存在の一部でないものはない、宇宙は超越者の現れたものである。
 宇宙のその背後に、それと一体である大いなる善、真、愛、智を信頼するための道が、頼子の前に開かれたのであった。


 もちろんそれは一瞬の奇跡ではなく、頼子の追求の結果ではあったのだが、その信頼をさらに深めるために、思索と瞑想と知識とを求め続ける生活が始まった。いわゆる神学的探求、スピリチュアルな世界を前提として頼子の内面から取り出される想いと言葉が導いていく先に、思いもかけず、苦の種であった夫和彦の存在意義が現れて来た。

 それは今や、廃人への一途を辿る和彦と折り合っていくための知恵であるかもしれないとしても、根本的な変化につながる考えと言えるだろう。頼子はうなづく。

 そうなのだ、彼こそは頼子の大切な孫、悠斗をもたらした原因であった。そう思うことはある意味馬鹿げているが、目の前にある悠斗という愛しい現実からすれば、原因であるとみなすのが当然である。

 もちろん和彦のような困った人間を大切な存在として捉え直すことは、なかなか難しい。これでもか、というように和彦からは悪徳がさらに生まれてくるのを、負けるか、と頼子は受け入れていった。自分を大きくしていった。

 愛する者への心配や不安をやめ、何が起こっても全て良しとみなすことにした。
 全ては超越者の暖かいプレゼントである。完璧な世界であることを思い出すための必要欠くべからざる計らいであり、頼子がすることはただ、ネガティヴなものがあってもまずは感謝し、それを冷静に観察し、それを捨て去ると決定することであった。


 それでもなお、和彦とナミとの間に立たされて、いずれを優先するか二つの命の間で決定すべきこともあり、しかし決定できないで、悩みつつ、しかし誰にも、母親にさえ相談することもできないでいたある五月の午後、ナミの車椅子を押して鎮守の森へ向かっていた。

 ドクダミがびっしりと土を覆っていて蕾がたくさん見えていた。他愛ないおしゃべりをしながら母との気兼ねのない花散策を楽しんでいた。

 その時ふと、来週ドクダミが咲き誇るこの森にまた二人でくることができるだろうか?と自分でも腑に落ちないながら、危惧が湧いたのであった。

 果たして、その五日後、ナミに脳梗塞が起こったのである。
 左半身麻痺、嚥下障害と発話障害があり、点滴のみで対処し、高齢なので延命治療は絶対しないということになった。

 尊厳を奪われた状態で、意識ははっきりあるのに喋ることもできないのは、あまりに惨めでかつ苦しい。

 暑い盛りであったが二ヶ月半保った。まるで即身成仏そのものだった。
 しかし最後の一週間は口内炎の悪化で痛がった。まるで吸血鬼のようになってしまい、頼子はそれがもっと酷くなるしかないことを思ってパニックなり、医者に早く母を昏睡状態にしてくれと頼んだのであった。父の最後も昏睡状態にしてもらうように頼んだのは頼子だった。


「もうすぐ楽になるからね、痛く無くなるから大丈夫よ」
 ナミのひたいに触れながら囁いた。

 点滴が半分になり八日して、やっと昏睡に陥った。ナミの暖かい柔らかいひたいをいつものように撫でて
「もうすぐもっと楽になるよ、もうすぐみんなに会えるよ」と頼子は囁いた。

 次の日、冷房がほどほどに効いた静かな部屋で、七十三年を共に戦ってきた母と娘として、看取り看取られつつお互いに恩愛の中にいた。

「おかーさん、おおよそラッキーな人生だったよね、何よりもお父さんに出会ったこと、私はいつも心配ばかりかけてしまったけども。みんなによろしくねー」

 言葉にすると、急に涙で声がくぐもるのだった。もっと食べたかっただろうか、もっと地上の美しいものを見たかっただろうか、とどこかで罪を感じ、死ななければならない母親が可哀想だった。

 その翌日には、ナミは静かに息を引き取った。二十四時間の昏睡であった。
 次に会った時には、ドライアイスで冷やされたそのひたいは恐ろしく冷たかった。暖かいナミはもういなくなったのだ。


五 頼子の大事の刻

 頼子にとって次の最後の一大事は、自分の死である。母親で予行練習させてもらったような気もする。死後の世界は楽しみなはずである。何故なら、見えない存在、見える存在はコインの裏表のように一体化していて、存在の目的はこの世を天国と為すこと、どこまでも神性を体現する人間になること、慈愛の限りなさを信頼することであるので。

 そう信じることに決めたのだ。

 頼子の最後の出来事を頼子自身が記録することはできないだろうけれど。

      了

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東天
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