四 ナミの一大事
そこ、房総半島の小都市は、期待もあきらめもなくただ必要に即した引越しであったにもかかわらず、意外なほどに住みやすい環境であった。すい臓がんでただ一人の弟は地震の後の夏を超えずに亡くなったのだが。
漫然とした不如意の、ぼんやりの頼子らしい日常がありがたいとも思うことなく三年ほど続いた。
そこへ、これまでの不如意が先鋭化して来た。次の一大事が出来してきたのである。
頼子にとって、介護している和彦の生き方と自分の不自由とはどうしても正面衝突するものであった。彼に自分の人生を捧げることが無意味であった。当然、夫婦生活は破綻していたし、それゆえの憎悪をお互いが感じていた。
ほとんど同時期に、和彦が頓死寸前の状態と診断されて入院、頼子が原因不明の腰痛を起こし、連動して、施設にやっと慣れた母のナミが不思議な眠り病にかかった。
しかし、三人ともになんとか生き延びた時、初めて頼子に、まずは母親への責任感が目覚めた。
父の頼光が亡くなって二十数年たつが、敬愛する父を、その頃やっと認定されたアミドイロージスという難病で苦しませたことを常々苦にしていた頼子が、母を無事に穏やかに死なせる、あの世への引導を渡す仕事を引き受けようと急に決意したのである。
そこには、明らかに長年頼子の中に積もって来た父親と長男充への思い、また仕事を成し終えずに逝った弟への思いも働いていた。彼らとの繋がりが消えてしまうということを受容できなかったのだろう。自分でも不明な心の動きがあった。
時は冬であった。ある朝、頼子は長男の充を助け得なかったこと、離婚が遠因であっただろうという罪悪感を確認しながらまた歩いていた。
突然、頭の上から何かが、声が、意味が、降って来た。
「あなたに罪はありません」
それを頼子は、呆然とはしたが、一瞬のちにすぐに信じた。
そうであるには全ての解釈が変化しなければならないが、きっと変化すべきなのだ、という意味において頼子はそのことを信じた。
それは、壮大な超越的存在の慈愛への信頼であった。
この世の全て、星の一つ、虫の一つ、花の一つに至るまでその存在の一部でないものはない、宇宙は超越者の現れたものである。
宇宙のその背後に、それと一体である大いなる善、真、愛、智を信頼するための道が、頼子の前に開かれたのであった。
もちろんそれは一瞬の奇跡ではなく、頼子の追求の結果ではあったのだが、その信頼をさらに深めるために、思索と瞑想と知識とを求め続ける生活が始まった。いわゆる神学的探求、スピリチュアルな世界を前提として頼子の内面から取り出される想いと言葉が導いていく先に、思いもかけず、苦の種であった夫和彦の存在意義が現れて来た。
それは今や、廃人への一途を辿る和彦と折り合っていくための知恵であるかもしれないとしても、根本的な変化につながる考えと言えるだろう。頼子はうなづく。
そうなのだ、彼こそは頼子の大切な孫、悠斗をもたらした原因であった。そう思うことはある意味馬鹿げているが、目の前にある悠斗という愛しい現実からすれば、原因であるとみなすのが当然である。
もちろん和彦のような困った人間を大切な存在として捉え直すことは、なかなか難しい。これでもか、というように和彦からは悪徳がさらに生まれてくるのを、負けるか、と頼子は受け入れていった。自分を大きくしていった。
愛する者への心配や不安をやめ、何が起こっても全て良しとみなすことにした。
全ては超越者の暖かいプレゼントである。完璧な世界であることを思い出すための必要欠くべからざる計らいであり、頼子がすることはただ、ネガティヴなものがあってもまずは感謝し、それを冷静に観察し、それを捨て去ると決定することであった。
それでもなお、和彦とナミとの間に立たされて、いずれを優先するか二つの命の間で決定すべきこともあり、しかし決定できないで、悩みつつ、しかし誰にも、母親にさえ相談することもできないでいたある五月の午後、ナミの車椅子を押して鎮守の森へ向かっていた。
ドクダミがびっしりと土を覆っていて蕾がたくさん見えていた。他愛ないおしゃべりをしながら母との気兼ねのない花散策を楽しんでいた。
その時ふと、来週ドクダミが咲き誇るこの森にまた二人でくることができるだろうか?と自分でも腑に落ちないながら、危惧が湧いたのであった。
果たして、その五日後、ナミに脳梗塞が起こったのである。
左半身麻痺、嚥下障害と発話障害があり、点滴のみで対処し、高齢なので延命治療は絶対しないということになった。
尊厳を奪われた状態で、意識ははっきりあるのに喋ることもできないのは、あまりに惨めでかつ苦しい。
暑い盛りであったが二ヶ月半保った。まるで即身成仏そのものだった。
しかし最後の一週間は口内炎の悪化で痛がった。まるで吸血鬼のようになってしまい、頼子はそれがもっと酷くなるしかないことを思ってパニックなり、医者に早く母を昏睡状態にしてくれと頼んだのであった。父の最後も昏睡状態にしてもらうように頼んだのは頼子だった。
「もうすぐ楽になるからね、痛く無くなるから大丈夫よ」
ナミのひたいに触れながら囁いた。
点滴が半分になり八日して、やっと昏睡に陥った。ナミの暖かい柔らかいひたいをいつものように撫でて
「もうすぐもっと楽になるよ、もうすぐみんなに会えるよ」と頼子は囁いた。
次の日、冷房がほどほどに効いた静かな部屋で、七十三年を共に戦ってきた母と娘として、看取り看取られつつお互いに恩愛の中にいた。
「おかーさん、おおよそラッキーな人生だったよね、何よりもお父さんに出会ったこと、私はいつも心配ばかりかけてしまったけども。みんなによろしくねー」
言葉にすると、急に涙で声がくぐもるのだった。もっと食べたかっただろうか、もっと地上の美しいものを見たかっただろうか、とどこかで罪を感じ、死ななければならない母親が可哀想だった。
その翌日には、ナミは静かに息を引き取った。二十四時間の昏睡であった。
次に会った時には、ドライアイスで冷やされたそのひたいは恐ろしく冷たかった。暖かいナミはもういなくなったのだ。
五 頼子の大事の刻
頼子にとって次の最後の一大事は、自分の死である。母親で予行練習させてもらったような気もする。死後の世界は楽しみなはずである。何故なら、見えない存在、見える存在はコインの裏表のように一体化していて、存在の目的はこの世を天国と為すこと、どこまでも神性を体現する人間になること、慈愛の限りなさを信頼することであるので。
そう信じることに決めたのだ。
頼子の最後の出来事を頼子自身が記録することはできないだろうけれど。
了
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