A(エース)

A(エース)

 これは或る男と、知的障害を持って生れたAという女との恋愛物語である。付き合い始めてからその破局迄を描いて居るが、男の方はこの「破局」を俗に言われる処の「破局」としては捉えて居らず、自然から与えられた成長の一要素だとして捉えて居り、今でも(Aと別れた後でこの本文内容を振り返って見て居る時点を「今」とする)、その心中で愛するAを飼い続けて居る。この「男」側からの視線により内容が描かれて居る為、この本文の内には男の心象表現の様なものが織り交ぜられて居るが、どうか慈悲の心を持ち、辛抱強く御付き合い願いたい。尚、この内容とは唯読者の傍観を期するものとして描いたものであり、この内容を以て読者に何かを感じて頂ければ筆者としては幸いである。

A(エース)

 もう遠い日の事である。その男はAという自分だけが知る女の分身の様なものと出会って居り、知らず内にこれを愛し、自分の夢や活力、人生に於ける苦渋といったもの迄全て有りの儘にその娘に与え、その娘を讃えて、矢張り只管愛して居た。そういう過去達が矢張り遠くを覗く望遠鏡の成せる業か、屈託無く全てを煌めきの様に変え、笑顔が通り過ぎて行く揺るぎ無い奇怪な信徒を衒う彼女・分身を我が身へと投げて寄越したので在る。真っ白な日だった。白日夢とは正にこの様な一日の事を指すものじゃないかと男は疑うが、日々、連日と、忘却の彼方迄に〝一日の流れ〟は過ぎて行く事と成り、稚拙な融解を見たその男の眼は一日にして子供の様に体が萎み、彼女の目線と合った様だった。雲の上からは又、自分だけが知る女神様の様な自然が織り成して来る傀儡達が、唯、自然を通した眼を以て男の陰へと潜み、その「自然の力」を以て娘を欲し続けて居るその男の背面に在る鏡にも、きっとあの日に見た彼女の背中と心とを同じ様に屈託無く見せ付けて居たのだろう、男は知らず内に密接に「彼女」という怪物の様な存在が未だその心に巣食って居る事に自ず気付かされる訳である。この心の五線に様々な、はた又音色さえ無い符号を書き並べても真っ新な色彩を灯りとしたこの一室ではその効果も薄れ、確かに音はしないが、彼の心の内では矢張り「彼女」とのバランスが絶え間無く鳴り響く一律の音色効果をまざまざ見せ付けられる破目と成り、又、自然に対して弱く成って行く。自然と自然を呪う訳である。この自然は恐らく「彼女」を指すもので在ろうと、何時か見た〝六六六〟の数字さえいとも可笑しく自分の耳元に囁く様にして置かれて居るのではあるまいかとして、一心同体、そうした情景は全て心裏に住む彼女の身へと投げ掛けられて、彼女を凄む。沢山彼女の姿を、心象を、テーマを、悪の姿へと変えて来た彼で在ったからこれ以上何やら武器を以て凄める証はもう手の内には無く、唯〝落ち武者〟の様にして、映画のテロップを眺める様に彼女であるAの内心を事細かく分解して行こうとする。無論、彼女は気付かない事で在ったがその日一日の彼の衝動が為す業は、到底、彼女の内を流れ果てるライフストリームの生き血より強いもので在ろうと、束の間の心中で彼は呟いて居た。過去達から来る亡き〝亡霊〟が今ではもうずっと美的の様に思われて、雲の上から女神様が自分に唯ほくそ笑んで居る様なそんな気概に男の現在は変えつつ在るが、典型・執筆、その女神の姿はその遠いパラダイスの様に見える安全圏の内にしか無く、儚く見える人風、人煙、人災に、溌剌として燃える怪人達の行き交う困惑の地域には唯一重にも見付からずして、男は遂にその「愛の様な対象」を探す事を諦め掛けて居る。しかし男は想った。終ぞ、この物語を書いて置かねばこれ迄の自分の証さえ無く成って仕舞い、無機質にも似て居る雲の揺れ動きからやって来た様な彼女の億劫の嘆きは微塵の様にして枯葉と共に漆黒の内に消えて仕舞うのではないか、と。何れにせよ、竜巻が起きても落雷を浴びても書き終えねば成るまいと男は強かに考えて居た。何れにせよこの物語を、ノンフィクションを、我が雲の上のパラダイスへと続く階梯に仕立て上げなければ憂慮は貰えないと神を仰ぎ見て決め、〝この世に生きた己の傑作〟にすれば良いと目論んで居たのだ。ガラスの中に手を突っ込んで彼女との思い出を取り出して見ると、心の内でそれは褐色で在りながらも満たす物と成るが、いざ蓋を開ける様にしてその思惑の一つ一つを取り上げて並べて見ればその〝思惑一つ〟は醜態の様で在り、恥ずかしく切羽詰まった自己への鼓舞の様なものが寒風が吹き込むこの部屋一面に押し並べて拡げられる事と成り、TVのブラウン管から誰かの申し子か七光りが自分の法螺話を聴衆へと吹き掛ける様にして、一つの凋落めいた体臭しか映さないのであった。彼女(A)の言葉一つ一つに身を潜める慇懃が放つ漆黒に堕ちる迄の男の猶予は、辛うじて男の心中で揺れ蠢き、白紙に書き出す申し子の闊達足る教育は、何時しか人煙の内へと又消えてその実際を隠す処と成る。この辺りにあの、男がAの肉体に又溺れ掛けた〝我が身〟が在った訳であり、それは歌劇でも寸分の狂いも無く咲く浪曲の一節でも無く、一個の純朴足るドラマへの装飾の様なものが在ったのだ。御遊戯染みたその〝造戯〟の成す処が我の手元に在る内は未だこの〝漆黒迄の猶予〟にも幅を醸せるだろうと、あらゆる軒先から羽ばたく小鳥の歌声にさえ一曲の意味を付けられるだろう等と安易に構えられる〝変容〟を笠に着た男の〝一室〟が顔を覗かす訳であり、しがないサラリーマンが暗雲の下、慟哭のするこの街中で到底叶いそうにもないドラマの構築を図る訳である。そこには凡そ理性も人体も、虚空も、宇宙も、肉欲が織り成した〝性差万物〟を図る孤高な境地も、滅多矢鱈に善悪の鏡を仕立て上げる諸刃の様な自然の営みが、唯、その男に架空の分別を教えて行く様に〝混交足る我が身の快楽〟に付随して起る無純の避暑地を作らせ、男にとっての変らぬ正義を見せたのだ。女が居ない盲目の地の果てでの事。

A(エース)

 空気の断片の内に、自分と過去のAとの姿を見た気がして男は仕方なく独り言を呟き始める。その姿はこの世での自然の営みと柵に疲れ果てては居るが、二人の間に矛盾に思えるものがなく、正直が生きて居る様に思え、Aが自分に未だ、その本能の奥義と生活に於けるエネルギーの散乱を集め切れて居ない失態を仄めかす様な姿勢を持って居る様に見え、嬉しく成った。途端に直り始めた過去の隠蔽が付けたその身の傷は緩やかに現実を這い回り始めて、TVのブラウン管から七光りが来ようが誰が来ようが流行というものを抹殺するかの如く孤独を光が照らし、〝神風連〟に見た様な正義への拍手を男は独りでにし始めて、又彼女の影を追う事と成った。煩悶、反問、斑紋、これ迄に見た数々のトラウマにも成る様な努力に奏でた失敗が、無尽蔵に改築された〝意識〟という存在の開闢迄へと燃え広がって、それでも苦心宛らに逃げ果せた個の覇権は疾風の如く虚空へ迄吹き上げた春風の柔らかさにその身を解され、遂に常識を極める意識の再生へと目を凝らす事と成る。自然と男との間で芽生えた常識の狭間が織り成す当面の結界の内で展開されるドラマでは、男を主人公にして回転し始めた。Aに似た部分を自分は持って居ると、その男は何処かでほくそ笑んで居た様子が在る。

A(エース)

 Aは幼くして別れた母親との関係をその後も保ちながら父親、弟、との父子家庭の内で育てられて居り、母親とは時折会う等して互いの近況を報告し合って居た様だ。何でもその母親は他に男を作ったとか何とかでひっそりとその家庭から身を隠し、夫が束ねる菓子職の手腕にその身を添える事が出来ず、楽と刺激とを求めて人生を彷徨い歩いたという噂がAの話を聞いたその男の心でのみに流れて、その実は知らぬでも良いとする都合の良い算段がその男の脳裏には在った。〝人生に於ける楽と刺激を求める母の姿〟というのに少し男は関心を覚え我が身を重ねる様にして見せて、その土台を発条に尚男はAとの距離を縮めようと躍起に成った事さえ現実に在った。その弟は某メーカー会社に勤めて居てAとは違って真面で、身体に相応の障害は持たず若くして働き、やがてはエリート商社マンにでも成れるのではないかしら、等という一身の火照りを見せながら、同じ屋根の下でも全くAとは違う生活の謳歌を成し遂げて居る様に思われて男はホッとすると同時に、少々の哀しさを想って居た。男はその弟にAの自宅の玄関先で二、三度会った事があったが、その表情は奥の部屋から漏れた蛍光灯の明りで逆光に成ったその内に一瞬見た程度であって、その様子をその後に何度繰り返して回想して見てもそれ以上の弟の様子を探る事は出来ずに、唯〝某メーカーで気丈に働き、自分よりもAよりも高給取りの新入商社マン〟程度にしか図れずに居た。又、それで良しとする理由には、その弟の様子に気弱な腰を窺えた気分が在り、いざと成ればその弟のお義兄さんにも、その弟を取って喰う鬼人の様にも自分が成れる、と踏んだ為である。
天川裕司
作家:天川裕司
A(エース)
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