誕生から死後までの意識

第四章 実存主義から得たもの

私は、翻訳された「 存在と時間 」を途中までは読みましたが諦めました。

古本屋で、「 ハイデッガーの実存思想 」(渡辺二郎著、1962320日発行)を手に入れましたので、私の主観で、それから引用しながら実存主義を考えて、私の考えを補強したいと思います。

*(注)引用する時(同書 ページ)と書き、ハイデッガーを(彼)と書きます。

 

なぜハイデッガーの「 存在と時間 」に興味があるかといいますと、「 現存在 」は、私のいう第二章、8の「 乗り物 」であるとも考えますし、「 存在 」とは第三章、3の「 色即是空、空即是色 」という般若心経の一節であると考えられないかという興味からでした。

「 時間 」は、「今」という間(ma)しか認めず、すべては頭脳の産物であるとしていますが、その妥当性を考えるためでもありました。

 

 

1、「 世界内存在 」と彼は言いましたが、私は「 世界 」を「 1、社会 」と「 2、宇宙 」に分けます。

1、社会 」は意識の世界であり、人間の感情や情動や人情の言葉に使われる「 情(zyou)」の世界、つまり相当因果関係から成り立つ「 物語 」の世界であり、「第二章、4人間の考え方」や同章「4、霊」で書いた人の集合であり、この中にあっては「 存在 」(神を示すと思いますが、私には宇宙エネルギー)に迫ることは出来ないと思います。

2.宇宙 」の中の人間は、地球の自転により絶えず違った状況に直面し、可能性を探る世界であり、宇宙エネルギーが形を変えた「 存在 」と自己が直面すると思います。

社会の中でも、宇宙の中でも、人間は「 可能性 」を言葉で考えるから、「 語り 」「 物語 」を司る頭脳が、順序をつけるために「 時間 」という観念を作り出し、「 物語 」を作るだろうと思います。

 

 

カントが「 時間は単に純粋直感形式として認識の感性的側面での制約をなすだけでなく、感性と悟性とが結合する場合にも際立った働きをなすものであった」「 時間は内管外管一切現象の根本形式 」で「 感性と悟性との統合的統一を媒介 」するもので、「 先験的図式とされるが、これは実は、先験的時間限定にほかならない 」(同書604ページ)

 

といったようですが、私は、カントが時間を先験的として、時間が人間の外部にあるように思えて、脳が第三章、2の因果関係に順序をつけるのに必要だから作り出した概念・意識だと考える私には、不満です。

 

 

2、「 時間 」について

 

私は、第三章、4-2 で書いたように、「 時間 」は「 先験的 」なものではなく、人間が生まれながらに、左脳と右脳を持っており、言語を司る左脳が時間軸となって「 時間 」を意識させ、空間や感情を担当する右脳が空間軸となって「 空間 」を意識させ相まって認識が成立すると考えます。

 

時間について、前述の本を読むと、同書595ページに、アリストテレスの時間論が紹介されていました。

アリストテレスが、時間を論ずるにあたって提議した問題は、

1.    時間は存在するものの部類に属するのか、それとも存在しないもののそれに属するのか?

「 時間は全然存在しないか、もしくは存在するとしても辛うじてであり、しかも極めて分かりにくい仕方である」(同書、596ページ)

 

2.    時間の本性は何であるか?

「時間のこうした存在形式を、本性において、運動と結びつけられて考えられる。運動とは、まさしくあってないようなものだから、「 運動ないし移り変わり」と結びつける。一方で、時間は運動と同じではないとする。何故なら、第一に、運動はただ移り変わるものの中にのみある、或いはそれが存在する場所のうちにあるが、時間は到るところに一様にあり、しかもあらゆるものとともにあるからであり、第二に、すべての移り変わりには遅速の別があるが、時間にはかかるものはない。というのは遅速はまさしく時間によって規定されるものだから、である。「このように時間は運動と同じではないが、他方で、時間は移り変わりなくしてはありえないことも明らかだ、とアリストテレスはいう。「 時間は運動ではないが、また運動なしにあるものでもない」ことになる。「 実のところ我々は、運動と時間を同時に知覚する 」時間は運動ではないが、運動なしにはないもの、つまり「 運動の何か 」である。それはどういうことかといえば、「我々が時間を知覚するには、実はただ我々が、運動をその前と後との別として限定したときにであり、そしてまた我々が時が経過したと言うのは、我々が運動のうちに前と後とを知覚した場合にである 」「 蓋し時間とは、まさにこれである。即ち前と後とに関しての運動の数である 」(同書、597ページ)

「 時間は今によって連続的となり、今において分割される 」

時間は、少なくとも、数える者がなければ存在しない、という意味での存在様式を持つものだけは明らかだろう。

アリストテレスは、「 心がなければ、時間は存在するかしないかは、充分に問われていない問いである 」とし、「 心以外に、もしくは心の理性以外に、数えるものもないならば、心がなければ時間は存在しないであろう 」(同書、598ページ)

ハイデッガーもいうように、時間は、運動に関係する限り客観的だが、数える心なしにあり得ない存在様式をもと限り、主観的なものだ」(同書、599ページ)

 

「 時間は今を中心として見られ、それの連続とされている、と言ってよい。勿論、今が時間の部分ではないが、時間は今の連続的継起において成り立つと結局は見られている。」(同書、599ページ)

 

 

*私の考え

1、の問いについて、

「 時間 」は、地球の自転からくる「 今 」と呼ばれる「 間(ma)」しか存在しないし、過去や未来というのは、因果関係を組み立てるための概念、意識であり、心理学が対象とすべきは前述した。

しかし、考えてみると、日本語で「 時間 」や「 空間 」や「 人間 」に、共通して同じ漢字の「 間(ma)」が使われているのは、興味深く思われ、古人は、人間は時間と空間の「 間(ma)(hazama)」の中で生きていることを知っていたのかも知れません。

 

2、の問いについて、

運動の前後を知りたいのは、第三章、3 因果関係、で書きましたように、運動の前の形から運動の後の形のエネルギーの変化をすぐには消滅しない因果関係として把握し蓄積し、出来事へ対応する「 可能性 」を得ることだと思います。

エネルギーは形を変え、「 因果 」は、認識する人によって相違しますから、「 因果 」は主観的に存在すると思います。

主観的というのは、その人が切り取った限りの「 因果 」であり、エネルギーは、結果がまた別の原因となり、止まるところがないので、固定した「 因果 」はないと思います。

時間は、「 運動の何か 」については同意しますが、運動は「 宇宙エネルギー 」の推移であるのに対して、「 何か 」とされる、数えるエネルギーは「 生命エネルギー 」であると考えるので、これらを、「 宇宙エネルギー 」と同一視した、あるいは混同したと私には思われるガリレイは、時間を主観的、心理的なものから客観的、普遍的な「 存在 」としたのは、科学の基礎になったことは認めますが、「 心以外に、もしくは心の理性以外に、数えるものもないならば、心がなければ時間は存在しないであろう 」(同書、598ページ)という所を見逃したのは同意することができません。

 

 

アリストテレスの後、アウグスチヌスの時間論が紹介されている。(同書、601ページ以降)

これらは、過去や未来や現在を記憶と予期と直感に当てていますが、私は、心理学の問題であることは前述しました。

カントもベルクソンも、今の連続が時間と考えているようですが、「 時間 」を脳の産物だと考えると、この「 連続 」が脳の生命エネルギーの残存であるかも知れません。

ちょうど、映画のコマは不連続なのに。幻灯機により映し出された画面を「 連続 」しているように見るように。

そして、時間は脳の産物としますと、地球が自転して人間が住む限り、「 時間 」は有り続けると思いますから、ビッグ・バンと同時に時間が存在するのも、私には疑わしく思います。

 

 

3、「 現存在 」について引用して私の解釈とします・

 

「 現存在それ自身が、世界性の性格をもち、世界性は、現存在の存在企投のうちに基づけられている。」「己の可能性を企投し追及して生存しようとする。(同書、384ページ)

「 世界内存在 」であり「 語り 」が必要で、「 現存在は真理の中にある 」し「 現存在は不真理の中にある 」「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)

「このように、主客相互の合致としての真理ではなく、そもそも現存在が或る場の中に存在者とかかわりつつ開示的にある。その様が真理とされ、そこから存在者の露呈性としての真理も出てくるのであり、しかもその際、現存在は真に己れの最自己的な存在可能性において企投的にあるとき、初めて世界は真に開示されるので、そうでないときは不真理である、というのが、ハイデッガーの真理観なのである」(同書、402ページ)

 

*私の考え

現在、生きている人間を「 現存在 」と呼び、存在の一態様であり、本来の自己存在の可能性に向けて企投することは「 存在 」となることで、人間は結果しか認識することができないから、「 因果 」で、原因や結果を「 可能性 」という無意識で推測するように、これから起きる結果を推定して現在の原因を考える。

結果(彼にとっては「死」)を予想、あるいは先取りして(先駆)、現在の生き方を凝視し、「 存在 」となって生きる。

というのが私の解釈ですが、「 存在と時間 」の本を読むのも途中で諦めましたので、間違いだろうと思います。

しかし、これらの思考や行為は脳によって行うものですから、「 時間 」が脳によって作られると考える私は、彼の本が「 存在 」と「 時間 」を明らかにしたとは思いません。

生きる以上は、脳が作る時間に従って「 実体 」を認識し、行為するしか出来ないからです。

「 存在 」は存在(宇宙エネルギー・神)であり、「 実体 」は実体(宇宙エネルギーが形を変えた物)であり、生命エネルギーによる時間が混入した物であると考えます。

「 語り 」で「 存在 」という真理を追及する限り、「 思弁 」に思えるからです。

 

4、私の「 方法 」

 

私は、アリストテレスに戻って、「 時間 」が「 運動の一部である 」が「 心の問題でもある 」ことを考えます。

まず、「 運動 」は、天体の運動であり、宇宙エネルギーであり、「 一部 」とは、生命エネルギーによる認識であると考えます。

前述したように、彼がいう「 世界内存在 」を、私は「 世界 」を「 1、社会 」と「 2、宇宙 」に分け、宇宙の中の「 存在 」を考えます。

そして、第二章の「4、人間の考え方」や「7、霊」や「5、エネルギーである気(ki)の循環」に書きましたように、宇宙エネルギーが生命エネルギーの発生に紛れ込み「 霊 」となって、「 時間 」を作るから、時間は「 霊 」あるいは「 心 」の問題になると考えます。

3、で、彼がいうように、「 現存在は真理の中にある 」し「 現存在は不真理の中にある 」「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)と思いますが、これは、第二章の「 5、エネルギーである気(ki)の循環 」で書きました「 死中生有り、生中生無し 」の状態であり、「生」を宇宙エネルギーとし、「 真理 」であると考え、宇宙エネルギーが紛れ込んだ、生命エネルギーの「 霊 」の中に「 生 」は発見できないからです。

そしてまた、「 存在 」は、第三章、「3、因果関係に時間が必要とするか」で書きましたように、「 色即是空、空即是色 」であり、エネルギーは形を変えても消滅しないからであると考えます。

エネルギーの根本である宇宙エネルギーが形を変え、人間の脳に時間が混じった「 実体 」という意識を発生させ、その結果、「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)と思わせると考えます。

 

 

それでは、宇宙エネルギーという「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと考えます。

しかし、私に思いつくのは、二つの方法です。

「 心 」(霊)は「 心は磁場である 」とブログでも書きましたように、気(ki)から派生する磁場のようなもので、天体では地球の磁場のようなものであり、「 社会 」においては価値観に満ちた人間同士の対人関係として現れると考えます。

この「 磁場 」を超越したものを考える時、宇宙エネルギーを発見することが出来るだろうと考えます。

一つは「 時間 」という意識を発生させることを考える方向であり、もう一つは、時間を超越した「 物語 」を信じて生きる中で発見する方向で、前者は、疑問ですが、英国のロジャー・ペンローズ氏の研究に注目したいと思いますし、後者は、生命エネルギーではなく宇宙エネルギーへの信仰であると思われるキルケゴールの信仰や仏陀の「 八正道 」の方向だと私は考えます。

私は、キリスト教や仏陀には全く自信がないのですが、「 八正道 」は、生きることを真面目に考えなさいという教えだと考えています。

「 誕生から死後までの意識 」を発表しておもうこと

私は、大学の県の同窓会の会長が、私の名前を判読できず、かな文字で、しかも間違えて「 総会案内状 」を送ってくるような輩を輩出した京都の大学を卒業しました。

学者でもなく、科学者でもない無趣味の年金生活者ですので、「 誕生から死後までの意識 」には、誤解や曲解があることをお許しください。

私は、「 輪廻転生 」があると書きましたが、これは、「 心を安定させるための宗教 」だと思いますので、無視されても結構です。

ただ言いたかったことは、僧侶やスピリチュアルと言われる人が、「 地獄 」や「 極楽 」とか「 天国 」とか「 霊界 」とかいう所には行きたくないと思ったからです。

それらの存在を肯定して、言葉や本にすれば、「 執着 」が起こり、その人はその世界に行くでしょう。

なぜなら、死ぬ時、最も信頼するものが、その言葉や本で示したことであり、当然、愛着があると思います。

それに生命エネルギーが残りますから、「 霊 」として、その所に行くでしょう。

その人が言葉に愛着が無ければ、それは人を惑わすものでしょう。

霊界があるという人には、霊界があり、死ねば霊界に行くでしょう。

「 修行するためにこの世に生きる 」と言いますが、死ねば「 自分 」という自意識は消えるのですから、修行しているのは、自分を生かしているもので、霊界から来たものなら「 霊 」でしょうし、いずれにしても「 自分 」ではありません。

私は、私を「 生かした 」生命エネルギーが、すべての意識や無意識(情)は文化として人間社会に残し、人間味のある「 霊 」を捨てて、神仏が創った生物に、人間やほかの生物といった区別をしないで、生命エネルギーとして再び送り出されることを願うだけで、それを「 輪廻転生 」と書いたのです。

だから、否定する人は、否定してください。

誰でも、死ねば分かることですから。

「 カエサルのものはカエサルに 神のものは神に 」
kandk55
作家:高口克則
誕生から死後までの意識
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