誕生から死後までの意識

第二章 誕生から死後までの意識

1、神

 

神とは何だろう?

宇宙創造、天地創造したものだろう。

宇宙は、ビッグ・バンにより誕生したと言われているから、私もそれの従い、宇宙創造主を「 神 」としよう。

それは、何だろうか?

爆発して出来たと言われ、宇宙にはダークマターというものがあるらしいから、多分そのダークマターから、爆発して宇宙が生まれ爆発したエネルギーがダークマターの間に「 宇宙空間 」を作り、様々な銀河などの星を作ったと仮定しよう。

私は、そのエネルギーが「 神 」であり、「 宇宙空間 」が「 神 」の身体だと仮定する。

エネルギーである「 神 」が動く、伝わる媒体が必要なら、その媒体は「 宇宙空間 」を満たす「 真空 」であり、真空を否定するなら「 宇宙空間 」自体が、神の身体であろう。

わたしは、かって「 宇宙空間 」を満たすものは「 エーテル 」とした。

「 エーテル 」を否定するなら、「 宇宙空間 」が神の身体であろう。

宗教によっては、神の偶像を禁止するらしいが、「 神 」が「 この意味での神 」であれば、私も当然であると思う。

「 神 」が星を作り、その中で、地球が誕生したのだろう。

地球の周囲に大気を作り、生物が発生できる環境を作ったのだろう。

「 神 」は、エネルギーであるから、太陽の光には生物は感謝するが、噴火や地震などの地殻変動や台風やハリケーンや原発もエネルギーだから、これも「 神 」だろう。

だから、人間にとって都合の良い「 神 」もあれば、都合の悪い「 神 」もいると、私は思う。

 

2、仏とは?

 

生命というエネルギーも「 神 」なのか?

それは、「 神 」の一種であるかも知れないが、ビッグ・バンに電気があったかは不明である。

私は、生命のエネルギーは気(ki)であるから、気(ki)という電気を持っていそうなものは何だろう?と考えた。

それは、プラズマ宇宙論がいうプラズマが電気を持っているから、その星座を誕生させる電気を持つエネルギーが、生命の源であり、それを「 仏(阿弥陀仏)」と呼びたい。

「 仏 」という漢字は、「 佛 」とも書き、「 人間ではない 」という意味があり、それは「 神 」と同じくエネルギーであると思うから、人間の眼では見えないし、偶像を作ることすら出来ないものだと思う。

仏画や仏像があるが、あれは、想像上、人間に似せて、人間の源であると示そうとするもので、「 仏 」は、信じる人の中にあるものだと思う。

 

3、自然信仰と宗教

 

日本は、神社と仏閣がある。

前者は「 神 」で後者は「 仏 」を奉る建物である。

また、日本には「 やおよろず 」の神がいて、すべての事物に神が宿り、霊峰富士や出羽三山といわれる神々が宿る神々の山があり、山岳信仰があり、「 富士山 」が世界文化遺産になったのは、山岳信仰も含めて信仰の山であるからだと思う。

このように、日本は神仏混交の国ではあるが、私は、これは正しい信仰の態度ではないかと思う。

神社は、1、の「 神 」の領域であり、仏閣は2、の「 仏 」の領域であるが、前者の目的は将来の豊作を祈願したり、神々の怒りを鎮めることであるのに対して、後者の目的は「 仏教の目的 」、即ち「 人格の完成 」という「 人が進むべき態度 」をめざすことであり、同時に生命の源への祈りであると思う。

仏閣の背後に神社を設けることは、「 高野山 」や「 清水寺 」など数多くの場所でみることができる。

私は、神社と仏閣が一か所にあることは、矛盾とは考えない。

日本は自然物のすべてに「 神 」が宿ると考えるのは宇宙のエネルギーが宿るもので、仏閣を囲む自然に「 神 」を認めるのも肯定できる。

また、一部の生き物にも「 神 」を認めたが、そこに、すべての生き物も同じであることを認めて欲しかった。

例えば、人間である。

「 神 」が宿るのは、現人神である「 天皇 」のみで、民衆は対象ではない。

これが、日本人の最大の誤りであったと思う。

「 意識は電磁波の構造をしている 」の総括でも述べたように、人間は宇宙エネルギー(生命エネルギー)による細胞分裂の結果であり、「 神 」や「 仏 」が含まれているのは無論のことであり、「 天皇 」と民衆を区別する理由は、民衆支配という政治目的でしかないと思う。

 

 

4、人間の考え方

「 意識は電磁波の構造を持つ 」でも書いたように、人間が生きていることは、大気や天気や気候など宇宙の気(ki)と連結して生命エネルギーである気(ki)が体内で働いていることである。

精子が卵子の中に入ることにより、生命エネルギーが細胞分裂を起こし、人間だったら人間に、馬だったら馬に、ネズミだったらネズミに、DNAの要求により身体が成長するだろう。

人間に生まれたのは、「 偶然 」といってもよいだろう。

その意味で、「 生きとし生きるもの 」には、生命エネルギーである「 仏 」がいるのであり、それを仏教でいう「 生きとし生けるものに仏性が宿る 」となるだろう。

私は、「 仏性 」を、生命エネルギーと理解し、「 仏性 」は生き物のすべてに同じで、「 人間 」の仏性に特別の意味を持つとは思わない。

生命エネルギーである2、「 仏 」もエネルギーである点では、1、の「 神 」と同じく気(ki)であると思う。

1、 「 神 」という気(ki)は、天気や気候や大気などの気(ki)であり、その気(ki)を呼吸により体内に取り込んで、2、「 仏 」である、生命エネルギーを起こすのであると思う。

その運動は、「 無意識 」に行われるが、それは生命維持に関する「 脳幹 」や「 間脳 」が主な働きをしていると思う。

その気(ki)が、大脳に回り、「 五感 」や「 意識」を働かせ始めると、人間らしい行動を取るだろう。

これを、情(zyou)と呼んでおく。

このような大脳の働きを情(zyou)と呼ぶのは、感情、人情、情事、情報など、人間を表す時に使う言葉に、情(zyou)という単語が多く、これは、価値判断が起こる「 始めと終わり 」を個人が設定して、「 物語 」として発する言葉であると思う。

人は直面した出来事に対して行動した事の相当因果関係を個人が設定し、それを記憶するのだが、仏教でいう「末那識 」が働き、生命維持のため、どうしても「 自己中心的 」な記憶の塊が、「 阿頼耶識 」に蓄積されるだろう。

時間に「 未来や現在や過去 」という区別は無く、あるのは、自分にとっての「 現在 」あるいは「 今 」しかなく、その「 今 」の中には「 時間 」ではなく、「 今 」まで蓄積された、自己中心の意識や無意識(阿頼耶識)に蓄えられた因果関係や物語となった行動基準だけが、いわゆる「 自分の可能性 」だけが存在し、その「 今 」の出来事に直面して発揮されるだろう。

その無意識の行動を私は「 人格 」と呼ぶ。

「 人格 」が意識的行動をする前に現れて行為しているのだと思う。

無意識に動く心臓は意識で制御できないように、無意識の動きを意識で統御するのは困難であろう。

これは、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で述べたように、「 意識 」の中で制御する方向に考えや行動を変えることにより、無意識を変化させることができると思う。

それには、「 物語 」の「 始めと終わり 」の設定を変える必要があるだろう。

つまり、「 哲学 」して、考えや行動を改めることが必要であると思う。

今、はやりのAIも、自分に与えられたデーターを「 哲学 」し、根底から疑うことができれば、人間より真実に近づくかも知れないが、AIに、人間の情(zyou)を司る「 大脳辺縁系」や生命を司る「 脳幹 」や「 間脳 」の働きが無い限り、人間性から離れ、独自の理論を展開するため、かっての「 信頼度 」も失うだろう。

この気(ki)と情(zyu)の集合が「 意識 」であり「 心 」であり、「 精神 」であると思う。

気(ki)は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」に通じると考える。

 

5、宗教

 

人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

だから、自分の身体は確かに自分のものだけど、エネルギーは「 神 」や「 仏 」であるということになる。

私は、ここから、「 神 」や「 仏 」に対する信仰が始まるのではないかと思う。

「 私は無神論者だ 」という人もいるが、自分の人生は自分が決めるもので、無神論者であっても構わないと思うが、私から見れば、「 あなたは、神が作った傑作物です 」としか言いようがない。

私は、宇宙創成の「 神 」を信じるか、生命エネルギーである「 仏 」を信じるか違いはあると思うが、「 心の安定 」として、どちらを選ぶか迷っている。

周りが仏教だから、「 仏 」を信仰し、「 釈迦 」を人間としての理想像としているが、どうしていいのか分からない。

ただ、宗教の選択は、生活態度の選択だろうと思う。

宗教的な体験も無いし、宗教により、日々の戒律が違うだろうし、結婚式から葬儀から、死後の墓場まで違うから、迷う。

 

6、死んだらどうなるか。

 

老人らしく、死後のことも気になるのだ。

死によって気(ki)は全て無くなり、それから派生した情(zyou)も無くなり、この世を去ったら、どうなるか?

先日、書いたように、外部から入った、空気のような「 神のエネルギー 」は、人間の細胞内で、生命エネルギーに転化し、それが無意識の中に、神経を流れて、外部へと放出され、人間の身体は、気(ki)が乗り込んで動く「 乗り物 」のようなものだろう。

ただ、乗っているのが、生命エネルギーであり、自意識を持つ自分ではないから、勝手に乗りたり降りたりはできない。

物理的に「 私 」を形成した細胞は、「 火葬 」なら灰として残り、「 土葬 」なら埋葬後に腐敗して骨になって残るだろう。

私は、それだけでは無いと思っている。

細胞の中にあった気(ki)というエネルギーは、自分が処理できるのではなく「 神 」のものであるから、細胞に入る前のエネルギーに戻るだろう(燃えたガスに漂い神の身体である宇宙空間に漂うかも知れない)。

チベット仏教でいう「 光 」は、この生命エネルギーであるかもしれない。

このエネルギーは、偶然に人間の精子と卵子の中で生まれたが、生物は人間だけではない。

人間は動物であるから、同じ動物の犬や猫や馬や牛やいたるところの動物の生殖の中に、人間の死んだ屍から抜け出た生命エネルギーは「 輪廻転生 」するのかも知れない。

なぜなら、「 神 」にとっては、人間もその他の動物も、みんな同じ「 神の作品 」であるからだ。

どこに「 輪廻転生 」するかは、生命エネルギーの持ち主である、「 阿弥陀如来 」の決定に従うことになるだろう。

しかし、馬や牛に「 輪廻転生 」しても、心配する必要がない。

彼らが、人のため短時間で殺されたら、そこでまた生命エネルギーは「 輪廻転生 」することが出来るのだ。

人間には生まれるための「 時間 」が必要かも知れないが、生命エネルギーには、何年経ったら「 輪廻転生 」するかという「 時間 」は必要ではない。

 

 

7、「 霊 」

 

僧侶のような、修行を積んだ人はそれで終わりだと思うが、本能の欲というのが、人間にはある。

無意識のレベルでは「 欲 」であるが、これが自己中心の意識の中になると「 欲望 」となり、更に「 欲 」を募らせるものだ。

人間は動物であり、本能維持のため「 本能 」という欲、動物が持つ「 獣性 」というのを必ず持つものである。

「 欲 」は、エネルギーであるとも考えるから、屍から抜けた生命エネルギーは、すべての動物に「 輪廻転生 」するのだと思う。

この「 本能 」や「 獣性 」があるため、生命エネルギー(仏)を曇らせる。

これを、「 煩悩 」であると思いたい。

これがあるため、身体という「 乗り物 」に乗る生命エネルギーは「 仏 」ではなく、「 霊 」になり、人間は霊長類と呼ばれると考える。

「 霊 」とは人間味が残っている生命エネルギーで、「 煩悩 」の集合を気(ki)で結合させたものだと考える。

「 煩悩 」を消す行為や考えで、「 霊 」を浄化するのは、意識で無意識を変更させることと同じで可能であると思う。

「 霊 」には「 煩悩 」が含まれているため、執着が強いと思う。

それは、「 死にたくない 」と考えることであり、死によって「 乗り物 」たる身体を手放す時に、執着して捨てようとしないことで、気(ki)と情(zyou)が完全に分離せず、純粋に生命エネルギーである「 仏 」になることが出来ない、つまり、「 成仏 」出来ない状態が「 霊 」であると考える。

自殺した場合も、その場所に「 霊 」が残り「 成仏 」出来ず、「 徐霊師 」が成仏させると、よくテレビで放映している。

「 自殺 」により、自分をこの世から抹消したいという気持ちであろう。

ところが、前述したように、「 自分の身体 」は、生命エネルギーの「 乗り物 」であって、乗り物の自分の身体は抹消したように見えても、その「 乗り手 」である生命エネルギーの処分ができない。

だから、この生命エネルギーが、自殺者の姿を借りたままで「 成仏 」出来ないのだと思う。

また、死んだ人の霊を呼び寄せる「 霊媒師 」という人もいる。

私は、これらの職業は、「 霊 」という人間味が残っている生命エネルギーが無いと成立しないと思う。

ただ、こうした「 徐霊師 」や「 霊媒師 」というひとの中にはインチキでしている場合があると考える人も多い。

私は、そんな「 霊 」も人間の気(ki)と身体である情(zyou)が分離する途中の過程であり、人間味がある生命エネルギーであるという意味で「 霊 」を認めたい。

 

8、我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか

 

以上の考えで、このテーマに挑みたい。

前述したように、人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

「 意識は電磁波の構造を持つ 」という記述でも触れたように、生きているということは、宇宙創造の神である気(ki)が、神の被造物である人間の身体の細胞により生命エネルギーである気(ki)に転化して、意識を派生させ「 身体 」という「 乗り物 」を動かし、その後、宇宙の気(ki)の中に戻る過程である。

 

 

8-1、我々はどこからきたのか

 

それは、宇宙創造の「 神 」としてのエネルギーが「 仏 」としての生命エネルギーである気(ki)というエネルギーが、偶然にも人間の生殖の中に働き、細胞を分裂させ人体という「 乗り物 」の中に意識を派生させ、誕生し、親から「 お前の名前はゴーギャンだ」と命名され、その後、本能を中心とした自己中心の自意識を発生させ、「 私はゴーギャンである 」と名乗っているにすぎない。

だから、どこからきたかと問われるなら、生命エネルギーの源である「 阿弥陀仏 」の指令のもと、ほかの「 乗り物 」から離れて、この身体に「 輪廻転生 」したとでもいうだろう。

 

8-2、我々は何者か

 

それは、親から「 ゴーギャン 」という名前を頂いたが、実際は生命エネルギーにより集められた細胞の塊で、その働きで、「 私は、ゴーギャンだ 」という人間だと自分は思っているが、人間の形をした「 乗り物 」であるかも知れない。

なぜなら、自分を動かしているのは生命エネルギーであり、最終処分を下すのは、そのエネルギーであるから、人間という「 乗り物 」は自分の手で処分することができても、「 ゴーギャン 」だという人間は、「 ゴーギャン 」という姿の「 霊 」になったまま残るのかも知れない。。

 

8-3、我々はどこに行くのか

 

生命エネルギーによる最終処分が「 死 」であるなら、生命エネルギーである「 仏 」と屍に分離し、屍は宇宙の中の原子や分子になって、この地上に残るだろう。

生命エネルギーである「 仏 」は本来の源である「 阿弥陀仏 」のもとの戻り、また他の生物に「 輪廻転生 」するだろうが、私の中に、執着心などの「 煩悩 」があれば、生命エネルギーは、人間味を持ち(そのために「 仏 」になれない)「 霊 」として、この世を漂うだろう。

どこといっても、エネルギーに定まった「 位置 」はなく、遥か宇宙空間に飛び、星になるかもしれず、大気中にとどまり、生物の中にエネルギーとして入り込んだり、あるいは「 神 」のように、宇宙空間を身体として、宇宙を漂うかも知れない。

なにせ、エネルギーだから。

昔の人が、「 私が死んだら星になるから、寂しかったら見上げてごらん 」という言葉も、「 私が死んでも、お前のそばにいて、ずーっと守ってあげる 」とういう言葉は、私の立場から言えば、「 正しい 」ことになる。

 

 

 

追記 「輪廻転生」ではなく「 循環 」

私は、学者でも科学者でも、僧侶でもなく、68歳で、死を前にした、だだの無趣味な年金生活者である。

この歳になると、いろいろ死後のことも考えたくなるのです。

「 輪廻転生 」を受け入れるのか、拒否するのかは、あるいはどういう形で受け入れるのかは、心に安定を図る「 宗教 」であると思います。

 

 

1、これまでの「 流れ 」

 

「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように、気(ki)である「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が、人間の生殖の際、「 細胞分裂のエネルギー 」として働き、誕生となり、「 仏(阿弥陀仏)」が煩悩を纏った「 霊 」になり「 意識 」をDNAに従って派生させ、その集合である「 精神(心)」と肉体を「 乗り物 」として動かし、やがて生命エネルギーの終焉である「 死 」を迎え、それらを統合していた「 霊 」は「 精神(心)」を文化として人間社会に残し、肉体を屍として構成していた原子や分子を地球上に残し、それらから離脱して誕生前の「 仏(阿弥陀仏)」に戻り、「 輪廻転生 」する。転生する先は人間とは限らない。

自殺や不慮の死を迎えると、「 霊 」から煩悩が離脱しないため、人間味のある生命エネルギーとして、死亡現場や事物に残る。

 

以上のように「 物語 」を作りましたが、少し修正します。

 

 

2、なぜ「 輪廻転生 」を考えるのか

 

私の物語のうち、「 」で括られた事柄が私の定義でしかなく、真実かどうか疑わしい概念を基礎としているため、無知である私は輪廻転生を考えるのかも知れません。

ですが、人間の臓器を作れないし、DNAの組み換えは可能としてもDNAそのものを作ることができないし、光合成をする植物の「 葉 」も作れない科学が、「 人間 」を作れるとは思わない。

AI(人口知能)を作っても、ヒトラーの政策を肯定するAIになった例を見れば、AIは、与えられたデーターを全て疑うという「 哲学 」が出来ず(出来た場合は、人間の感情や常識が覆り、人間から離れた存在になり、今まで得た信頼感を失うだろう、あるいは人間に命令するというSFの世界になるかも知れない)、「 進歩 」も出来ないだろうし、人間の痛みも感じることが出来ないと思うから、かってのAIに対する信頼は無くなるでしょう。

人間と同じ機能を持つAIやロボットは、人間と同様に運動能力を持ち、経験から因果法則を発見したり、発明することが求められると思うます。

そんなロボットを作れるかどうか、現時点では疑問です。

細胞や遺伝子を元素、あるいは素粒子から作り出し、人工的に細胞を分裂させ、意識を与えるという気(ki)である「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」と同じ働きを人工的に創るのなら、私は「 輪廻転生 」を考えなくなるでしょう。

「 一部が全部である 」から、人間は宇宙の中にあって宇宙の一部であり、ダークマターなども宇宙の中の一部であるから、人間を科学という理論で作るなら、ダークマターを解明し、宇宙に対いて用いる相対性理論も量子論もすべての理論もその条件を満たすことが必要でしょう。

私は、過去の時間の定義から、「 時間 」は人間の脳が因果関係を知るために作った道具であり、宇宙はすべてエネルギーの代物ではないだろうかと考えるようになりました。

もし、科学の基礎である「 時間 」がそうであったら、それをデーターに用いるAIは人間の作った時間が宇宙の真理だという結果を出すでしょう。

人間もエネルギーの代物であると考え、身体を意味する「 体(karada)」は発音で「 空だ(karada)」と同じで、身体は物質であるように見えますが「 空(kuu)」であり、細胞の中には空間(kuukan)があり、その中を「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が流れることにより、「 生きている 」と考えるようになりました。

おそらく、「 脳 」もこれと一緒でしょう。

今の私は、人体の一部が、人工的に創られるとは考えることが出来ません。

エネルギー保存(不滅)の法則では、エネルギーは形を変えるだけで、消滅する事は無いのであれば、気(ki)もエネルギーであり、消滅することはなく、エネルギーがDNAを通して形を変えたのが意識であるかも知れません。

「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が、DNAを通して変化すると考えると、その過程がまだ未解明であるから、私はその間は、「 輪廻転生 」を確信しませんが、誕生から死亡、そして死から誕生までのエネルギーが形を変える「 循環 」はあるだろうと思います。

 

3、「 循環 」するのは何か?

 

3-1、意識?

 

生殖による細胞分裂から誕生までの意識の発生と形成過程は、私の想像です。

「 意識とは何であり、死後から誕生まで循環する意識とは何か 」が分からないから、にわかに賛同はできません。

私の立場では、気(ki)、即ち「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」がDNAの中を経由して派生したものが意識であるとしますから、意識は「 その人限り 」であり、生命の死後から誕生へ「 循環 」することは無いと思います。

「 誕生から死後までの意識 」で書いたように、自分を守るために、自己中心的に「 情報 」を集積し、自分の運動(知覚の全て)の可能性として「 物語 」として「 記憶 」し「 自分 」を構成し、「 死 」により「 自分 」から解き放たれた意識は、生命エネルギーである気(ki)の消滅により気(ki)を伝える「 無意識 」は消えて、その人が生前に残した絵画や文章となり「 文化 」の中に集結し、それを他の生命体が自己中心的な可能性の中に取り入れられると思いますから、「 循環 」するならば、個人と社会の文化という世界だと思います。

「 時間 」は「 今 」のみで、自分が記憶した「 自分の可能性 」は、過去の他人の可能性と「 時間 」を必要としない可能性と共有できますから、各自は残された他人の可能性を、自分のDNAで区切って「 自分の可能性 」の中に取り入れることは可能だと思います。

 

3-2、「 循環 」するものは気(ki)か?

 

私は、気(ki)だと思いますが、私にはやっかいな事があります。

私は、気(ki)を宇宙のエネルギーの気(ki)(神)と生命エネルギーである気(ki)の二種類を使っていますが、この生命エネルギーの気(ki)は、生殖により男女の遺伝子情報を組み替えた細胞を創り、宇宙のエネルギーとともに細胞分裂させ臓器などを内包した生命体を作り、臓器などの機能を有効にする「 ソフトウェア 」として、無意識である「 本能 」と共に遺伝子情報の中に組み込まれるのではないか、私は心配します。

生物の脳はこの「 本能 」というソフトウェアで臓器を機能させると思いますが、人間の場合は他の生物の脳がもつ無意識の他に「 意識 」も派生させ、あわせて「 精神(心) 」となると考えます。

「 精神(心)」とは何かについては、その種の学問も医学もあるのでそれを参照してください。

私が考える「 精神(心)」とは、私のブログでも書きましたように、「 心は磁場である」ということにしておきます。

その意味は、地球上に住めば重力があり、上下が決まるように、人間は誰でも「 本能 」を持ち、意識の中には「 価値観 」を持っていて、その上に、出来事の因果や「 力(エネルギー) 」を知る能力を持っていると思います。

物理上、地球には特殊相対論が適用されますように、人間すべての意識が特殊であり、人生観などという特殊の理論を持ち、その人のみに適用される理論があると思います。

精神は「 誕生から死後までの意識 」で書いたように、「 無意識 」と「 意識 」の全部と肉体を統一している「 霊 」も含まれると思います。

前述と重なる部分が多いですが、あとで考えたことも付け加えておきます。

人間の場合、生命エネルギーの気(ki)から派生した形で無意識と意識が生じ、それを貫いて「 時間意識の軸 」と「 空間意識の軸 」を生じ、空間意識の軸のまわりに、直面した現実を時間意識による「 時間 」と空間意識による「 自分の運動(知覚も含む)の余地 」としての「 空間 」を使って出来事を因果関係と捉え、脳に受けた運動エネルギーの衝撃による「 印象 」を消滅しないように因果関係として保存し、それを「 時間意識の軸 」に沿って「 自分の可能性 」として、「 深層意識(阿頼耶識)」に時間や衝撃の順に整理して保存することを「 記憶 」と考えます。

出来事から受けた印象を、自己生命の維持のため自己中心的に、「 表層意識(末那識)」で保存したあと、頻繁に繰り返されたり、睡眠などにより「 時間意識の軸 」を通って「 深層意識(阿頼耶識)」に蓄えられていた「 派生したもの 」が「 流れるもの 」に形を変えて無意識に流れ込み、その集合が「 自分の可能性 」として、「 現在 」、「 今 」の状況を把握し、無意識の行動となると思います。

また、出来事から大きな衝撃(力)が脳に残ると、無意識の中で「 ストレス 」や「 トラウマ 」という力(エネルギー)となり、時間意識の軸から現実に溢れ出て、社会にとって異常と思える行動を取るのかも知れません。

頻繁に上記のことが繰り替えされると、行動に導く無意識が人を特徴づける「 人格 」や「 パーソナリティ 」になると思います。

精神をこのように考えた時、この無意識が本能と共に「 遺伝子情報 」の中に書き込まれることを心配するのです。

親から子に遺伝子情報が受け継がれるが、子は親と違った「 出来事 」に遭遇する。

それに対して親から受け継いだ「 可能性 」で対処するが、親とは違った「 始めと終わり 」を設定して「 出来事 」を捉え、その結果「 自分の可能性 」を拡大するでしょう。

その結果、遺伝子が突然変異して脳が肥大するかも知れません。

私は、それを人間の脳の「 進化 」と捉えますが、生殖のつど遺伝子内で、本能に混じって、意識が混入し、親から子へ循環するのではないかと心配します。

 

「 六道 」は住む世界(生存状態)で、どのように生まれるかを表す四生(ししょう)の組み合わせで「 輪廻転生 」し、輪廻から抜け出すには三毒の心を捨てなさいと僧侶は言います。

生存中は、その必要があるかも知れませんが、「 死 」により、誰でも三毒の心から逃れると思いますから、誰もが死ねば「 仏陀 」になり、輪廻転生しないと思いますが、もし、前述しましたように遺伝子情報が書き替えられたら、「 本能 」の他に親の無意識が子に遺伝するかも知れません。

その意味で、親は「 煩悩 」を消しておくのが良いと思います。

僧侶がいうように、生存中に三毒の心を捨てて「 悟った 」としても、この三毒の中には生命エネルギーである気(ki)が含まれているかも知れません。

私は生存中は、「 悟る 」ことは出来ず、「 死 」によって悟る状態になると思います。

しかし、「 悟ること 」が煩悩などが無い状態であると解釈すれば、熊や犬や牛や馬も「 精神 」は持っていないかも知れないが、「 創造主 」から見れば「 すでに悟っていて 」、人間だけが、煩悩により「 創造主 」の意図から、離れているのかも知れません。

 

4、生き物に共通するのは何か?

 

仏教で、「 一切衆生悉有仏性 」(いっさいしゅじょうしつぶっしょう)といって、生きとし生けるものは、すべて仏陀になる可能性(仏性)を持っており、すべて悟りうるという思想があります。

ネットによると、日本では、この解釈について諸説があり、「 精神性 」の有無により違うらしい。

仏教の普及のためかどうかわかりませんが、前述したように、「 精神 」は派生したもの、生命体が独自に持つものだと思いますから「 精神 」は死により消えると思います。

私は、「 すべて仏陀になる可能性(仏性)を持っており 」というのを、「 すべてに生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)が宿っている 」と解釈しますので、仏教徒ではないと思います。

「 仏 」は仏陀をいうが同時に如来も意味し、その如来の最高位にあるのが「 阿弥陀仏 」であり、それがすべての生き物に宿っていると解釈します。

念仏は「 南無阿弥陀 」と発音し、すべて阿弥陀に帰依しますと念じるのですが、大宇宙の阿弥陀仏を念じるだけでなく、同時に自分を生かしている阿弥陀仏にも念じていると考えます。

私が念じる阿弥陀仏は、人物ではなく、生命エネルギーで、それに対して念じているのです。

阿弥陀仏を生命エネルギーの気(ki)だと思えば、自分は阿弥陀仏に生かされていると思うことになるのではないかと、想像します。

生き物に共通するのは生命エネルギーである阿弥陀仏という「 仏 」ということになり、生命エネルギーが「 代謝すること 」であれば、その機能を持つ生き物には「 仏性 」があるというのが、私の考えなのです。

しかし、これは「 仏教 」ではありません。

私も生き物の一種ですから、私の生命エネルギーの終焉である「 死 」により、宇宙エネルギーの気(ki)が分離し、他の生命体の生命エネルギーと結びつくかも知れません。

ですから、親から子へ循環するのは生命エネルギーの気(ki)であり、その人の死後に循環するのは宇宙エネルギーである気(ki)であると思います。

 

 

5、エネルギーである気(ki)の「 循環 」は次のようになると考えます。

 

「 死中生有り、生中生無し 」の前段の「 死中生有り 」の「 死 」を生命のエネルギーである気(ki)の終焉とし、「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

後段の「 生中生無し 」の「 生中 」の「 生 」を生命エネルギーである気(ki)と解釈し「 生存中 」と考え、「 生無し 」の「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

つまり、後段の「 生中生無し 」というのは、「 誕生 」により、宇宙エネルギーである気(ki)は、生命エネルギーである気(ki)を含む生命体の「 欲 」や「 煩悩 」と交じって、生命体の「 霊 」という形になるから、生存中を示す「 生中 」には宇宙エネルギーの気(ki)は「 生無し 」となります。

前段の「 死中生有り 」というのは、生命エネルギーである気(ki)の終焉である「 死 」により「 欲 」や「 煩悩 」から解き放たれると宇宙エネルギーである気(ki)が残りますから「 生有り 」となります。

そして宇宙エネルギーの気(ki)は、別の生命エネルギーである気(ki)が発生する時に紛れ込み、その生命体の「 霊 」になる。

生命体の「 死 」により、解き放たれていない宇宙エネルギーの気(ki)は「 霊 」として残り「 霊界 」で遊ぶ。

……という物語です。

 

霊界については、ネットでもいろいろと見解がありますから、好きな人は、それを参照してください。

第三章 記憶・認識から行動まで

1、 基本的な考え

 

万物は流転する

エネルギーは形を変えるが消滅することはない

意識は電磁波の構造を持つ

 

2、私が、時間を否定する理由

 

私は、エネルギーが「 きっかけ 」あるいは条件により「 形 」を変え、その「 形 」が人に作用して「 実体 」と意識されると思う。

その「 実体 」から別の「 実体 」に変化することを知ることにより、エネルギーが変化したのだと知るだろう。

それが認識だと思うが、人はエネルギーを「 形 」を通して知る。

エネルギーの単位を「 ジュール 」という「 仕事量 」とし、「 実体 」として把握することは出来ず、それからの意識も生じず、「 実体 」に形を変えることにより、認識することが出来る。

エネルギーの変化に時間が必要と考えたいが、それは認識が必要とする「 間 」を計測するのに必要であり、エネルギーは時間と関係なく絶えず変化していて、エネルギーの変化は時間と無関係であると思う。

 

3、因果関係に時間が必要とするか

 

「 因果関係 」により把握したいのは、形から形へ変わるエネルギーであり、因果や因縁で、「 原因 」や「 結果 」というが、それは認識上の「 形 」の変化を見た後の「 理由づけ 」であり、五感での認識上、時間を必要とするのだと思う。

「 形 」を認識するには時間が必要であり、その原因が「 時間 」という観念を生み出したものだと思う。

原因と結果の間に「 時間 」が必要だと思うのは、物質(形)の不可逆性がその判断に導くのであり、不可逆性があるから、原因と結果が判明するのだと思う。

その物質(形)の不可逆性はエネルギーの不可逆性であり、「 時間の方向 」を決めるものではない。

そもそも、「 方向 」というのは、精神の問題であり、エネルギーとは無関係であると思う。

不可逆か否か判明することが出来ない時は、因果関係は不明で、時間が必要なのは五感で「 形 」を捕らえるためであって、エネルギーの変化は時間の長短には無関係だと思う。

「 原因 」や人間の行動の「 動機 」は、心の内面にあると思うが、それは内面が持つ無意識という物質的なもの(流れるもの)をエネルギーと想定して、知覚することが出来ないエネルギーの「 始め 」を推測することであり、「 結果 」も同じであろう。

それは宇宙創成から連続するエネルギーの変化を、「 自分 」のDNAが持つ「 五感 」で断ち切ることであり、何を原因として「 因果関係の物語 」を構成するかは、自分の可能性(能力)を決める始発点になると思う。

その「 因果関係 」の蓄積が無意識(流れるもの・不随意運動)になって、直面する現実に対処する自分の可能性(能力)となるのだから。

五感による確定は、末端から脳まで達し、脳が判断するまでの「 時間 」を必要とするから、「 脳 」が「 時間 」を要求するものだと思う。

「 色即是空 」、「 空即是色 」というが、私の考えは仏教とは違い、前段は、色(実体)はエネルギーが諸条件の衝突により「 形 」を変えたものだから、本来は空(エネルギー)であるが、空(エネルギー)は「 時間 」とは関係なく変化するから、恒常的ではないと解釈し、後段は、空(エネルギー)は五感に訴える色(実体)を通してしか判断できないが、色(実体)はエネルギーの形であり常に変化しているから、五感には恒常的ではなく、変化する現象的な実体として現れると解釈する。

恒常的とか現象的とかいう実体は、五感が必要とする「 精神的な概念・意識 」であると私は解釈する。

このように考えると、日本の原始時代に「 やおよろず 」の神がいて、万物の宿るという考えも、「 神 」をエネルギーと考えると、一応、納得をしている。

 

 

4、「 時間 」も「 空間 」も脳が作り出した概念、道具であると思うが、なぜそれらを必要とするのか。

 

これは、私の持論である「 記憶 」と関係すると思う。

第一章でも書いたように、人間生活には「 記憶 」が必ず必要だと思うが、この「 記憶 」についての今まで解明に、私は不満を感じていた。

これは、私の内面の分析であるから、主観的で間違っているかもしれないので、無視されても結構です。

 

私は、「 必要とするもの」と「 存在するもの 」とは別物と思っていて、「 時間 」は社会生活上は必要だが、それが宇宙創成の時から存在したとは考えない。

むしろ、「 脳 」が必要として作り出した道具だろうと思っている。

私は、「 時間 」や「 空間 」を時間意識と空間意識とし、「 空間意識 」を「 記憶 」の関係で考えて「 運動可能な余地 」という意味に理解した。

「 運動エネルギーを空間意識と時間意識を使って相当因果関係のある物語 」として、脳は保存すると考える

それは、第一章でも書いたように、上記の「 因果関係 」と「 記憶 」が、「 自分 」の「 可能性 」と関係しているからだと思う。

 

 

4-1、なぜ記憶するのか

 

第一章で『 私は、運動の過程から脳に受けた衝撃を「 印象 」と考え、その衝撃(エネルギー)を脳が蓄積し、それを整理し、関係づける接続詞のようなものが「 時間 」という意識(時間意識)であり、目覚めているとき「 印象 」を整理、蓄積し、睡眠する間に今まで蓄積した「 印象 」を結び、一定の運動エネルギーとして、海馬に蓄積する 』のが記憶とした。

 

印象とは、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)と考えるが、エネルギーはすぐ消えるが、因果関係という「 物語 」として保存すれば脳の中に残る。

エネルギーの領域(神の領域)に時間や空間があるとしても、人間は「 時間意識 」と「 空間意識 」という意識でしか把握できないことは第一章で書いた。

「 時間意識 」と「 空間意識 」を作ることにより、脳内に「 運動エネルギーの因果関係という物語 」を成立させることにより、エネルギーを「 自分の可能性 」あるいは「 自分の能力 」とすることが出来る。

 

地球の自転により、直面するのは「 現在 」「 今 」、「 ここ 」の、自分が切り取った出来事であり、これに対して自分が持つ可能性の全てをかけて、いかに対応すべきか(例えば、今この空気を吸うべきか否か)、つまりT(時間)・P(場所)・O(機会)の中で「 生きる 」ために今まで経験から得た運動可能性をすべて発揮しなければならない。

その「 運動可能性 」は因果関係として保存、記憶していた運動エネルギーであり、それを発揮することだろう。

その日のために、「 記憶 」するのだと思う。

エネルギーが、O(機会)により形を変えるのに対して、T(時間・時間意識)とP(場所・空間意識)を組み合わせた因果関係という物語を想起して、運動エネルギーを発揮するために、「 記憶 」するのだと思う。

 

4-2、記憶から行動まで

 

私は、第一章で、時間意識と空間意識は「 アプリオリ 」にあるだろうと書いたが、それらは、「 大脳の構造 」に気(ki)が働くことにより、自然に発生するものだと思う。

人間は生まれながらに、左脳と右脳は持っているから、時間意識も空間意識も、生まれながらに持っているということにまる。

時間意識は「 因果関係という物語 」を順序よく論理的に作らないと役に立たないから、「 左脳 」から発生するだろうし、「 物語 」を作る前に目前の「 実体 」を感覚で捕らえる必要から、空間や感覚や直感を担当する「 右脳 」から、空間意識が生じるだろうと考える。

時間軸は左脳全体であり、空間軸は右脳全体であるだろう。

それから作られた「 運動エネルギーの因果関係という物語 」は、海馬に記憶され、地球の自転により直面する現実の気(ki)に合わせて、頭脳の中の気(ki)が反応して、時間軸(左脳)と空間軸(右脳)を働かせて、「 因果関係 」の蓄積が無意識(流れるもの・不随意運動)になって蓄積していた自分の可能性(能力)から運動可能性を引き出し、直面する現実に対処するだろう。

 

 

第四章 実存主義から得たもの

私は、翻訳された「 存在と時間 」を途中までは読みましたが諦めました。

古本屋で、「 ハイデッガーの実存思想 」(渡辺二郎著、1962320日発行)を手に入れましたので、私の主観で、それから引用しながら実存主義を考えて、私の考えを補強したいと思います。

*(注)引用する時(同書 ページ)と書き、ハイデッガーを(彼)と書きます。

 

なぜハイデッガーの「 存在と時間 」に興味があるかといいますと、「 現存在 」は、私のいう第二章、8の「 乗り物 」であるとも考えますし、「 存在 」とは第三章、3の「 色即是空、空即是色 」という般若心経の一節であると考えられないかという興味からでした。

「 時間 」は、「今」という間(ma)しか認めず、すべては頭脳の産物であるとしていますが、その妥当性を考えるためでもありました。

 

 

1、「 世界内存在 」と彼は言いましたが、私は「 世界 」を「 1、社会 」と「 2、宇宙 」に分けます。

1、社会 」は意識の世界であり、人間の感情や情動や人情の言葉に使われる「 情(zyou)」の世界、つまり相当因果関係から成り立つ「 物語 」の世界であり、「第二章、4人間の考え方」や同章「4、霊」で書いた人の集合であり、この中にあっては「 存在 」(神を示すと思いますが、私には宇宙エネルギー)に迫ることは出来ないと思います。

2.宇宙 」の中の人間は、地球の自転により絶えず違った状況に直面し、可能性を探る世界であり、宇宙エネルギーが形を変えた「 存在 」と自己が直面すると思います。

社会の中でも、宇宙の中でも、人間は「 可能性 」を言葉で考えるから、「 語り 」「 物語 」を司る頭脳が、順序をつけるために「 時間 」という観念を作り出し、「 物語 」を作るだろうと思います。

 

 

カントが「 時間は単に純粋直感形式として認識の感性的側面での制約をなすだけでなく、感性と悟性とが結合する場合にも際立った働きをなすものであった」「 時間は内管外管一切現象の根本形式 」で「 感性と悟性との統合的統一を媒介 」するもので、「 先験的図式とされるが、これは実は、先験的時間限定にほかならない 」(同書604ページ)

 

といったようですが、私は、カントが時間を先験的として、時間が人間の外部にあるように思えて、脳が第三章、2の因果関係に順序をつけるのに必要だから作り出した概念・意識だと考える私には、不満です。

 

 

2、「 時間 」について

 

私は、第三章、4-2 で書いたように、「 時間 」は「 先験的 」なものではなく、人間が生まれながらに、左脳と右脳を持っており、言語を司る左脳が時間軸となって「 時間 」を意識させ、空間や感情を担当する右脳が空間軸となって「 空間 」を意識させ相まって認識が成立すると考えます。

 

時間について、前述の本を読むと、同書595ページに、アリストテレスの時間論が紹介されていました。

アリストテレスが、時間を論ずるにあたって提議した問題は、

1.    時間は存在するものの部類に属するのか、それとも存在しないもののそれに属するのか?

「 時間は全然存在しないか、もしくは存在するとしても辛うじてであり、しかも極めて分かりにくい仕方である」(同書、596ページ)

 

2.    時間の本性は何であるか?

「時間のこうした存在形式を、本性において、運動と結びつけられて考えられる。運動とは、まさしくあってないようなものだから、「 運動ないし移り変わり」と結びつける。一方で、時間は運動と同じではないとする。何故なら、第一に、運動はただ移り変わるものの中にのみある、或いはそれが存在する場所のうちにあるが、時間は到るところに一様にあり、しかもあらゆるものとともにあるからであり、第二に、すべての移り変わりには遅速の別があるが、時間にはかかるものはない。というのは遅速はまさしく時間によって規定されるものだから、である。「このように時間は運動と同じではないが、他方で、時間は移り変わりなくしてはありえないことも明らかだ、とアリストテレスはいう。「 時間は運動ではないが、また運動なしにあるものでもない」ことになる。「 実のところ我々は、運動と時間を同時に知覚する 」時間は運動ではないが、運動なしにはないもの、つまり「 運動の何か 」である。それはどういうことかといえば、「我々が時間を知覚するには、実はただ我々が、運動をその前と後との別として限定したときにであり、そしてまた我々が時が経過したと言うのは、我々が運動のうちに前と後とを知覚した場合にである 」「 蓋し時間とは、まさにこれである。即ち前と後とに関しての運動の数である 」(同書、597ページ)

「 時間は今によって連続的となり、今において分割される 」

時間は、少なくとも、数える者がなければ存在しない、という意味での存在様式を持つものだけは明らかだろう。

アリストテレスは、「 心がなければ、時間は存在するかしないかは、充分に問われていない問いである 」とし、「 心以外に、もしくは心の理性以外に、数えるものもないならば、心がなければ時間は存在しないであろう 」(同書、598ページ)

ハイデッガーもいうように、時間は、運動に関係する限り客観的だが、数える心なしにあり得ない存在様式をもと限り、主観的なものだ」(同書、599ページ)

 

「 時間は今を中心として見られ、それの連続とされている、と言ってよい。勿論、今が時間の部分ではないが、時間は今の連続的継起において成り立つと結局は見られている。」(同書、599ページ)

 

 

*私の考え

1、の問いについて、

「 時間 」は、地球の自転からくる「 今 」と呼ばれる「 間(ma)」しか存在しないし、過去や未来というのは、因果関係を組み立てるための概念、意識であり、心理学が対象とすべきは前述した。

しかし、考えてみると、日本語で「 時間 」や「 空間 」や「 人間 」に、共通して同じ漢字の「 間(ma)」が使われているのは、興味深く思われ、古人は、人間は時間と空間の「 間(ma)(hazama)」の中で生きていることを知っていたのかも知れません。

 

2、の問いについて、

運動の前後を知りたいのは、第三章、3 因果関係、で書きましたように、運動の前の形から運動の後の形のエネルギーの変化をすぐには消滅しない因果関係として把握し蓄積し、出来事へ対応する「 可能性 」を得ることだと思います。

エネルギーは形を変え、「 因果 」は、認識する人によって相違しますから、「 因果 」は主観的に存在すると思います。

主観的というのは、その人が切り取った限りの「 因果 」であり、エネルギーは、結果がまた別の原因となり、止まるところがないので、固定した「 因果 」はないと思います。

時間は、「 運動の何か 」については同意しますが、運動は「 宇宙エネルギー 」の推移であるのに対して、「 何か 」とされる、数えるエネルギーは「 生命エネルギー 」であると考えるので、これらを、「 宇宙エネルギー 」と同一視した、あるいは混同したと私には思われるガリレイは、時間を主観的、心理的なものから客観的、普遍的な「 存在 」としたのは、科学の基礎になったことは認めますが、「 心以外に、もしくは心の理性以外に、数えるものもないならば、心がなければ時間は存在しないであろう 」(同書、598ページ)という所を見逃したのは同意することができません。

 

 

アリストテレスの後、アウグスチヌスの時間論が紹介されている。(同書、601ページ以降)

これらは、過去や未来や現在を記憶と予期と直感に当てていますが、私は、心理学の問題であることは前述しました。

カントもベルクソンも、今の連続が時間と考えているようですが、「 時間 」を脳の産物だと考えると、この「 連続 」が脳の生命エネルギーの残存であるかも知れません。

ちょうど、映画のコマは不連続なのに。幻灯機により映し出された画面を「 連続 」しているように見るように。

そして、時間は脳の産物としますと、地球が自転して人間が住む限り、「 時間 」は有り続けると思いますから、ビッグ・バンと同時に時間が存在するのも、私には疑わしく思います。

 

 

3、「 現存在 」について引用して私の解釈とします・

 

「 現存在それ自身が、世界性の性格をもち、世界性は、現存在の存在企投のうちに基づけられている。」「己の可能性を企投し追及して生存しようとする。(同書、384ページ)

「 世界内存在 」であり「 語り 」が必要で、「 現存在は真理の中にある 」し「 現存在は不真理の中にある 」「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)

「このように、主客相互の合致としての真理ではなく、そもそも現存在が或る場の中に存在者とかかわりつつ開示的にある。その様が真理とされ、そこから存在者の露呈性としての真理も出てくるのであり、しかもその際、現存在は真に己れの最自己的な存在可能性において企投的にあるとき、初めて世界は真に開示されるので、そうでないときは不真理である、というのが、ハイデッガーの真理観なのである」(同書、402ページ)

 

*私の考え

現在、生きている人間を「 現存在 」と呼び、存在の一態様であり、本来の自己存在の可能性に向けて企投することは「 存在 」となることで、人間は結果しか認識することができないから、「 因果 」で、原因や結果を「 可能性 」という無意識で推測するように、これから起きる結果を推定して現在の原因を考える。

結果(彼にとっては「死」)を予想、あるいは先取りして(先駆)、現在の生き方を凝視し、「 存在 」となって生きる。

というのが私の解釈ですが、「 存在と時間 」の本を読むのも途中で諦めましたので、間違いだろうと思います。

しかし、これらの思考や行為は脳によって行うものですから、「 時間 」が脳によって作られると考える私は、彼の本が「 存在 」と「 時間 」を明らかにしたとは思いません。

生きる以上は、脳が作る時間に従って「 実体 」を認識し、行為するしか出来ないからです。

「 存在 」は存在(宇宙エネルギー・神)であり、「 実体 」は実体(宇宙エネルギーが形を変えた物)であり、生命エネルギーによる時間が混入した物であると考えます。

「 語り 」で「 存在 」という真理を追及する限り、「 思弁 」に思えるからです。

 

4、私の「 方法 」

 

私は、アリストテレスに戻って、「 時間 」が「 運動の一部である 」が「 心の問題でもある 」ことを考えます。

まず、「 運動 」は、天体の運動であり、宇宙エネルギーであり、「 一部 」とは、生命エネルギーによる認識であると考えます。

前述したように、彼がいう「 世界内存在 」を、私は「 世界 」を「 1、社会 」と「 2、宇宙 」に分け、宇宙の中の「 存在 」を考えます。

そして、第二章の「4、人間の考え方」や「7、霊」や「5、エネルギーである気(ki)の循環」に書きましたように、宇宙エネルギーが生命エネルギーの発生に紛れ込み「 霊 」となって、「 時間 」を作るから、時間は「 霊 」あるいは「 心 」の問題になると考えます。

3、で、彼がいうように、「 現存在は真理の中にある 」し「 現存在は不真理の中にある 」「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)と思いますが、これは、第二章の「 5、エネルギーである気(ki)の循環 」で書きました「 死中生有り、生中生無し 」の状態であり、「生」を宇宙エネルギーとし、「 真理 」であると考え、宇宙エネルギーが紛れ込んだ、生命エネルギーの「 霊 」の中に「 生 」は発見できないからです。

そしてまた、「 存在 」は、第三章、「3、因果関係に時間が必要とするか」で書きましたように、「 色即是空、空即是色 」であり、エネルギーは形を変えても消滅しないからであると考えます。

エネルギーの根本である宇宙エネルギーが形を変え、人間の脳に時間が混じった「 実体 」という意識を発生させ、その結果、「 いわば誤って真理の中にある 」(同書、400ページ)と思わせると考えます。

 

 

それでは、宇宙エネルギーという「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと考えます。

しかし、私に思いつくのは、二つの方法です。

「 心 」(霊)は「 心は磁場である 」とブログでも書きましたように、気(ki)から派生する磁場のようなもので、天体では地球の磁場のようなものであり、「 社会 」においては価値観に満ちた人間同士の対人関係として現れると考えます。

この「 磁場 」を超越したものを考える時、宇宙エネルギーを発見することが出来るだろうと考えます。

一つは「 時間 」という意識を発生させることを考える方向であり、もう一つは、時間を超越した「 物語 」を信じて生きる中で発見する方向で、前者は、疑問ですが、英国のロジャー・ペンローズ氏の研究に注目したいと思いますし、後者は、生命エネルギーではなく宇宙エネルギーへの信仰であると思われるキルケゴールの信仰や仏陀の「 八正道 」の方向だと私は考えます。

私は、キリスト教や仏陀には全く自信がないのですが、「 八正道 」は、生きることを真面目に考えなさいという教えだと考えています。

kandk55
作家:高口克則
誕生から死後までの意識
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