誕生から死後までの意識

第二章 誕生から死後までの意識

1、神

 

神とは何だろう?

宇宙創造、天地創造したものだろう。

宇宙は、ビッグ・バンにより誕生したと言われているから、私もそれの従い、宇宙創造主を「 神 」としよう。

それは、何だろうか?

爆発して出来たと言われ、宇宙にはダークマターというものがあるらしいから、多分そのダークマターから、爆発して宇宙が生まれ爆発したエネルギーがダークマターの間に「 宇宙空間 」を作り、様々な銀河などの星を作ったと仮定しよう。

私は、そのエネルギーが「 神 」であり、「 宇宙空間 」が「 神 」の身体だと仮定する。

エネルギーである「 神 」が動く、伝わる媒体が必要なら、その媒体は「 宇宙空間 」を満たす「 真空 」であり、真空を否定するなら「 宇宙空間 」自体が、神の身体であろう。

わたしは、かって「 宇宙空間 」を満たすものは「 エーテル 」とした。

「 エーテル 」を否定するなら、「 宇宙空間 」が神の身体であろう。

宗教によっては、神の偶像を禁止するらしいが、「 神 」が「 この意味での神 」であれば、私も当然であると思う。

「 神 」が星を作り、その中で、地球が誕生したのだろう。

地球の周囲に大気を作り、生物が発生できる環境を作ったのだろう。

「 神 」は、エネルギーであるから、太陽の光には生物は感謝するが、噴火や地震などの地殻変動や台風やハリケーンや原発もエネルギーだから、これも「 神 」だろう。

だから、人間にとって都合の良い「 神 」もあれば、都合の悪い「 神 」もいると、私は思う。

 

2、仏とは?

 

生命というエネルギーも「 神 」なのか?

それは、「 神 」の一種であるかも知れないが、ビッグ・バンに電気があったかは不明である。

私は、生命のエネルギーは気(ki)であるから、気(ki)という電気を持っていそうなものは何だろう?と考えた。

それは、プラズマ宇宙論がいうプラズマが電気を持っているから、その星座を誕生させる電気を持つエネルギーが、生命の源であり、それを「 仏(阿弥陀仏)」と呼びたい。

「 仏 」という漢字は、「 佛 」とも書き、「 人間ではない 」という意味があり、それは「 神 」と同じくエネルギーであると思うから、人間の眼では見えないし、偶像を作ることすら出来ないものだと思う。

仏画や仏像があるが、あれは、想像上、人間に似せて、人間の源であると示そうとするもので、「 仏 」は、信じる人の中にあるものだと思う。

 

3、自然信仰と宗教

 

日本は、神社と仏閣がある。

前者は「 神 」で後者は「 仏 」を奉る建物である。

また、日本には「 やおよろず 」の神がいて、すべての事物に神が宿り、霊峰富士や出羽三山といわれる神々が宿る神々の山があり、山岳信仰があり、「 富士山 」が世界文化遺産になったのは、山岳信仰も含めて信仰の山であるからだと思う。

このように、日本は神仏混交の国ではあるが、私は、これは正しい信仰の態度ではないかと思う。

神社は、1、の「 神 」の領域であり、仏閣は2、の「 仏 」の領域であるが、前者の目的は将来の豊作を祈願したり、神々の怒りを鎮めることであるのに対して、後者の目的は「 仏教の目的 」、即ち「 人格の完成 」という「 人が進むべき態度 」をめざすことであり、同時に生命の源への祈りであると思う。

仏閣の背後に神社を設けることは、「 高野山 」や「 清水寺 」など数多くの場所でみることができる。

私は、神社と仏閣が一か所にあることは、矛盾とは考えない。

日本は自然物のすべてに「 神 」が宿ると考えるのは宇宙のエネルギーが宿るもので、仏閣を囲む自然に「 神 」を認めるのも肯定できる。

また、一部の生き物にも「 神 」を認めたが、そこに、すべての生き物も同じであることを認めて欲しかった。

例えば、人間である。

「 神 」が宿るのは、現人神である「 天皇 」のみで、民衆は対象ではない。

これが、日本人の最大の誤りであったと思う。

「 意識は電磁波の構造をしている 」の総括でも述べたように、人間は宇宙エネルギー(生命エネルギー)による細胞分裂の結果であり、「 神 」や「 仏 」が含まれているのは無論のことであり、「 天皇 」と民衆を区別する理由は、民衆支配という政治目的でしかないと思う。

 

 

4、人間の考え方

「 意識は電磁波の構造を持つ 」でも書いたように、人間が生きていることは、大気や天気や気候など宇宙の気(ki)と連結して生命エネルギーである気(ki)が体内で働いていることである。

精子が卵子の中に入ることにより、生命エネルギーが細胞分裂を起こし、人間だったら人間に、馬だったら馬に、ネズミだったらネズミに、DNAの要求により身体が成長するだろう。

人間に生まれたのは、「 偶然 」といってもよいだろう。

その意味で、「 生きとし生きるもの 」には、生命エネルギーである「 仏 」がいるのであり、それを仏教でいう「 生きとし生けるものに仏性が宿る 」となるだろう。

私は、「 仏性 」を、生命エネルギーと理解し、「 仏性 」は生き物のすべてに同じで、「 人間 」の仏性に特別の意味を持つとは思わない。

生命エネルギーである2、「 仏 」もエネルギーである点では、1、の「 神 」と同じく気(ki)であると思う。

1、 「 神 」という気(ki)は、天気や気候や大気などの気(ki)であり、その気(ki)を呼吸により体内に取り込んで、2、「 仏 」である、生命エネルギーを起こすのであると思う。

その運動は、「 無意識 」に行われるが、それは生命維持に関する「 脳幹 」や「 間脳 」が主な働きをしていると思う。

その気(ki)が、大脳に回り、「 五感 」や「 意識」を働かせ始めると、人間らしい行動を取るだろう。

これを、情(zyou)と呼んでおく。

このような大脳の働きを情(zyou)と呼ぶのは、感情、人情、情事、情報など、人間を表す時に使う言葉に、情(zyou)という単語が多く、これは、価値判断が起こる「 始めと終わり 」を個人が設定して、「 物語 」として発する言葉であると思う。

人は直面した出来事に対して行動した事の相当因果関係を個人が設定し、それを記憶するのだが、仏教でいう「末那識 」が働き、生命維持のため、どうしても「 自己中心的 」な記憶の塊が、「 阿頼耶識 」に蓄積されるだろう。

時間に「 未来や現在や過去 」という区別は無く、あるのは、自分にとっての「 現在 」あるいは「 今 」しかなく、その「 今 」の中には「 時間 」ではなく、「 今 」まで蓄積された、自己中心の意識や無意識(阿頼耶識)に蓄えられた因果関係や物語となった行動基準だけが、いわゆる「 自分の可能性 」だけが存在し、その「 今 」の出来事に直面して発揮されるだろう。

その無意識の行動を私は「 人格 」と呼ぶ。

「 人格 」が意識的行動をする前に現れて行為しているのだと思う。

無意識に動く心臓は意識で制御できないように、無意識の動きを意識で統御するのは困難であろう。

これは、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で述べたように、「 意識 」の中で制御する方向に考えや行動を変えることにより、無意識を変化させることができると思う。

それには、「 物語 」の「 始めと終わり 」の設定を変える必要があるだろう。

つまり、「 哲学 」して、考えや行動を改めることが必要であると思う。

今、はやりのAIも、自分に与えられたデーターを「 哲学 」し、根底から疑うことができれば、人間より真実に近づくかも知れないが、AIに、人間の情(zyou)を司る「 大脳辺縁系」や生命を司る「 脳幹 」や「 間脳 」の働きが無い限り、人間性から離れ、独自の理論を展開するため、かっての「 信頼度 」も失うだろう。

この気(ki)と情(zyu)の集合が「 意識 」であり「 心 」であり、「 精神 」であると思う。

気(ki)は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」に通じると考える。

 

5、宗教

 

人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

だから、自分の身体は確かに自分のものだけど、エネルギーは「 神 」や「 仏 」であるということになる。

私は、ここから、「 神 」や「 仏 」に対する信仰が始まるのではないかと思う。

「 私は無神論者だ 」という人もいるが、自分の人生は自分が決めるもので、無神論者であっても構わないと思うが、私から見れば、「 あなたは、神が作った傑作物です 」としか言いようがない。

私は、宇宙創成の「 神 」を信じるか、生命エネルギーである「 仏 」を信じるか違いはあると思うが、「 心の安定 」として、どちらを選ぶか迷っている。

周りが仏教だから、「 仏 」を信仰し、「 釈迦 」を人間としての理想像としているが、どうしていいのか分からない。

ただ、宗教の選択は、生活態度の選択だろうと思う。

宗教的な体験も無いし、宗教により、日々の戒律が違うだろうし、結婚式から葬儀から、死後の墓場まで違うから、迷う。

 

6、死んだらどうなるか。

 

老人らしく、死後のことも気になるのだ。

死によって気(ki)は全て無くなり、それから派生した情(zyou)も無くなり、この世を去ったら、どうなるか?

先日、書いたように、外部から入った、空気のような「 神のエネルギー 」は、人間の細胞内で、生命エネルギーに転化し、それが無意識の中に、神経を流れて、外部へと放出され、人間の身体は、気(ki)が乗り込んで動く「 乗り物 」のようなものだろう。

ただ、乗っているのが、生命エネルギーであり、自意識を持つ自分ではないから、勝手に乗りたり降りたりはできない。

物理的に「 私 」を形成した細胞は、「 火葬 」なら灰として残り、「 土葬 」なら埋葬後に腐敗して骨になって残るだろう。

私は、それだけでは無いと思っている。

細胞の中にあった気(ki)というエネルギーは、自分が処理できるのではなく「 神 」のものであるから、細胞に入る前のエネルギーに戻るだろう(燃えたガスに漂い神の身体である宇宙空間に漂うかも知れない)。

チベット仏教でいう「 光 」は、この生命エネルギーであるかもしれない。

このエネルギーは、偶然に人間の精子と卵子の中で生まれたが、生物は人間だけではない。

人間は動物であるから、同じ動物の犬や猫や馬や牛やいたるところの動物の生殖の中に、人間の死んだ屍から抜け出た生命エネルギーは「 輪廻転生 」するのかも知れない。

なぜなら、「 神 」にとっては、人間もその他の動物も、みんな同じ「 神の作品 」であるからだ。

どこに「 輪廻転生 」するかは、生命エネルギーの持ち主である、「 阿弥陀如来 」の決定に従うことになるだろう。

しかし、馬や牛に「 輪廻転生 」しても、心配する必要がない。

彼らが、人のため短時間で殺されたら、そこでまた生命エネルギーは「 輪廻転生 」することが出来るのだ。

人間には生まれるための「 時間 」が必要かも知れないが、生命エネルギーには、何年経ったら「 輪廻転生 」するかという「 時間 」は必要ではない。

 

 

7、「 霊 」

 

僧侶のような、修行を積んだ人はそれで終わりだと思うが、本能の欲というのが、人間にはある。

無意識のレベルでは「 欲 」であるが、これが自己中心の意識の中になると「 欲望 」となり、更に「 欲 」を募らせるものだ。

人間は動物であり、本能維持のため「 本能 」という欲、動物が持つ「 獣性 」というのを必ず持つものである。

「 欲 」は、エネルギーであるとも考えるから、屍から抜けた生命エネルギーは、すべての動物に「 輪廻転生 」するのだと思う。

この「 本能 」や「 獣性 」があるため、生命エネルギー(仏)を曇らせる。

これを、「 煩悩 」であると思いたい。

これがあるため、身体という「 乗り物 」に乗る生命エネルギーは「 仏 」ではなく、「 霊 」になり、人間は霊長類と呼ばれると考える。

「 霊 」とは人間味が残っている生命エネルギーで、「 煩悩 」の集合を気(ki)で結合させたものだと考える。

「 煩悩 」を消す行為や考えで、「 霊 」を浄化するのは、意識で無意識を変更させることと同じで可能であると思う。

「 霊 」には「 煩悩 」が含まれているため、執着が強いと思う。

それは、「 死にたくない 」と考えることであり、死によって「 乗り物 」たる身体を手放す時に、執着して捨てようとしないことで、気(ki)と情(zyou)が完全に分離せず、純粋に生命エネルギーである「 仏 」になることが出来ない、つまり、「 成仏 」出来ない状態が「 霊 」であると考える。

自殺した場合も、その場所に「 霊 」が残り「 成仏 」出来ず、「 徐霊師 」が成仏させると、よくテレビで放映している。

「 自殺 」により、自分をこの世から抹消したいという気持ちであろう。

ところが、前述したように、「 自分の身体 」は、生命エネルギーの「 乗り物 」であって、乗り物の自分の身体は抹消したように見えても、その「 乗り手 」である生命エネルギーの処分ができない。

だから、この生命エネルギーが、自殺者の姿を借りたままで「 成仏 」出来ないのだと思う。

また、死んだ人の霊を呼び寄せる「 霊媒師 」という人もいる。

私は、これらの職業は、「 霊 」という人間味が残っている生命エネルギーが無いと成立しないと思う。

ただ、こうした「 徐霊師 」や「 霊媒師 」というひとの中にはインチキでしている場合があると考える人も多い。

私は、そんな「 霊 」も人間の気(ki)と身体である情(zyou)が分離する途中の過程であり、人間味がある生命エネルギーであるという意味で「 霊 」を認めたい。

 

8、我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか

 

以上の考えで、このテーマに挑みたい。

前述したように、人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

「 意識は電磁波の構造を持つ 」という記述でも触れたように、生きているということは、宇宙創造の神である気(ki)が、神の被造物である人間の身体の細胞により生命エネルギーである気(ki)に転化して、意識を派生させ「 身体 」という「 乗り物 」を動かし、その後、宇宙の気(ki)の中に戻る過程である。

 

 

8-1、我々はどこからきたのか

 

それは、宇宙創造の「 神 」としてのエネルギーが「 仏 」としての生命エネルギーである気(ki)というエネルギーが、偶然にも人間の生殖の中に働き、細胞を分裂させ人体という「 乗り物 」の中に意識を派生させ、誕生し、親から「 お前の名前はゴーギャンだ」と命名され、その後、本能を中心とした自己中心の自意識を発生させ、「 私はゴーギャンである 」と名乗っているにすぎない。

だから、どこからきたかと問われるなら、生命エネルギーの源である「 阿弥陀仏 」の指令のもと、ほかの「 乗り物 」から離れて、この身体に「 輪廻転生 」したとでもいうだろう。

 

8-2、我々は何者か

 

それは、親から「 ゴーギャン 」という名前を頂いたが、実際は生命エネルギーにより集められた細胞の塊で、その働きで、「 私は、ゴーギャンだ 」という人間だと自分は思っているが、人間の形をした「 乗り物 」であるかも知れない。

なぜなら、自分を動かしているのは生命エネルギーであり、最終処分を下すのは、そのエネルギーであるから、人間という「 乗り物 」は自分の手で処分することができても、「 ゴーギャン 」だという人間は、「 ゴーギャン 」という姿の「 霊 」になったまま残るのかも知れない。。

 

8-3、我々はどこに行くのか

 

生命エネルギーによる最終処分が「 死 」であるなら、生命エネルギーである「 仏 」と屍に分離し、屍は宇宙の中の原子や分子になって、この地上に残るだろう。

生命エネルギーである「 仏 」は本来の源である「 阿弥陀仏 」のもとの戻り、また他の生物に「 輪廻転生 」するだろうが、私の中に、執着心などの「 煩悩 」があれば、生命エネルギーは、人間味を持ち(そのために「 仏 」になれない)「 霊 」として、この世を漂うだろう。

どこといっても、エネルギーに定まった「 位置 」はなく、遥か宇宙空間に飛び、星になるかもしれず、大気中にとどまり、生物の中にエネルギーとして入り込んだり、あるいは「 神 」のように、宇宙空間を身体として、宇宙を漂うかも知れない。

なにせ、エネルギーだから。

昔の人が、「 私が死んだら星になるから、寂しかったら見上げてごらん 」という言葉も、「 私が死んでも、お前のそばにいて、ずーっと守ってあげる 」とういう言葉は、私の立場から言えば、「 正しい 」ことになる。

 

 

 

kandk55
作家:高口克則
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