誕生から死後までの意識

第一章 意識は電磁波の構造を持つ

「 意識は電磁波の構造を持つ 」の総括

意識の中身について、哲学や脳科学の成果を期待していたが、私の68歳という年齢上、死ぬまでの時間も少なくなってきたので、私が、今までに考えた「 意識 」というものを、断捨離するつもりで、ここに書く。

20世紀が経ても「 意識 」が解決しないのは、「 鍬の入れどころ 」が違うのが原因ではないかと思い始めた。

金や温泉を探して、いたずらに地面を掘っても、金や温泉を発見することができない。

「 鍬の入れどころ 」が違うからである。

私は、精神病の患者が「 電波が飛ぶ 」というような訴えを、精神科医は笑って無視していたことを、考え直した。

意識は電波ではないかと。

バカほど、本当のことを言うのだ。

それで、これを発展させようとブログを書きだした。

 

他のブログに書いたことを引用して、「 意識は電磁波の構造を持つ 」という話の総括としたい。

 

まず注目したのは「 時間 」だった。

以前は、地球に上に立つ場所により、地球の緯度と経度が違うから、「 時間 」もすべて違うと考えていた。

しかし、これは違うのではないか?

ビッグ・バンが世界の始めならば、その時、爆発するエネルギーと「 広がり 」が有ったかも知らないが、「 時間 」はどうだろう?

「 広がり 」とエネルギーによる天体の運動は宇宙にあるかもしれないが、「 時間 」は、人間が生きているために必要な脳内の道具ではないか?

人間は空腹や睡眠のリズムがあり、女性には繁殖に必要な「 生理 」が「 間 」をおいて現れる。

稲の種を撒いたり収穫したり、生物の成長を待ったり、物が出来上がるまで、「 間 」が必要だ。

その「 間 」を天体の動きで知ったのが「 時間 」であり、宇宙の誕生以来、宇宙は一定の「 時間 」で動くのではなく、エネルギーが一定であるにすぎない。

つまり、宇宙は「 時間 」を必要としない。

「 時間 」が一定であるのは、天体が動くエネルギーが一定であるのではないか。

実際、暦には「 うるう年 」が設けられており、測定誤差を調節しているではないか。

となると、「 時間 」は、「 因果 」の関係などを「 物語 」の形式で脳内に蓄積するための道具にすぎない。

そして、「 時間 」は、地球に立つ位置の緯度や経度とは関係なく、本来は、主観的、個人的であり、人間は生まれながら違う時間を持っているのではないかと考えた。

その「 時間 」が振り子一つで決まる客観的なものであるとしたガリレイは、「 時間 」が持つ本来の主観的、個人的な意味を奪い、科学の基礎となった。

しかし、私は、ガリレイが時間を客観的なものに変えたことにより、人間の「 意識 」の解明の妨げになったと思う。

だから、以下のような記事になった。

以下は、「 ココロちゃんとおじさん 」というブログの記事である。

 

………………………………

 

1、ガリレイへの疑問

 

前回、ガリレイへ疑問があると書いたが、その理由である。

AI(人工知能)は、人間の脳を進化させたものだと思うが、AIが知る「 時間 」とは何であろうか?

「 記憶 」も「 意識 」も「 神 」も「 仏 」もそうだ。

これら、人間でもわからない知識を基礎にしたAIが、人間を指導するなんて、ちゃんちゃらおかしい。

ビッグバンが宇宙の誕生とすれば、エネルギーと空間しかなく、時間はないと思う。

「 時間 」は、人間の脳から生まれる意識であり、振り子一つでわかるなんてとんでもない。

重力が違う星では、地球とは違うかも知れない。

「 時刻 」は、地球上はすべて違うから、時計は無意味である。

「 今 」も自分だけにしか存在しない。

「 時間 」は、自分の脳の中で、順序をつけ、「 関係 」を知るための道具であり、人間が生存するための必要悪であり、生理的なリズム(例えば心臓の動き)、であり、個人的であり、そもそも人間はすべて、違った「 時間 」を持っていて、寿命と関係があるかも知れないと、私は思う。

客観的で誰にも同じ「 時間 」なんて、ありゃしない。

あるとした「 ガリレイ」は、科学には貢献したと思うが、彼は「 基本的に 」間違いを犯し、それを、ニュートンやカントなどの物理学者や哲学者が正当化したもんだから、みんな騙されちまった。

そういうわけで、ガリレイは、人間を間違った方向に導き、今になっても、「 時間 」とは何かは、わからない。

 

 

 

2、「 記憶 」について

 

 

自分が生きているのに必須である「 記憶 」について、我々は何を知っているというのだろう。

ネットで「 記憶 」について検索してみても、長期記憶とか短期記憶とか、あるいは脳のどの部分に蓄積されるかは知ることができるが、私は満足できない。

「 時間 」を、脳が関係づけるための道具と考えると、長期や短期という区別は意味がない。

私は、運動の過程から脳に受けた衝撃を「 印象 」と考え、その衝撃(エネルギー)を脳が蓄積し、それを整理し、関係づける接続詞のようなものが「 時間 」という意識(時間意識)であり、目覚めているとき「 印象 」を整理、蓄積し、睡眠する間に今まで蓄積した「 印象 」を結び、一定の運動エネルギーとして、海馬に蓄積すると思う。

「 時間 」は存在しないから、過去と現在と未来の区別は無く、存在するのは「 現在 」「 今 」のみで、過去や現在や未来、「 時間 」の繋がりではなく、個人の脳の内部に、運動により脳が受けた衝撃(エネルギー)を「 時間意識 」により「 印象の関係 」として有るのだろうと思う。

意識はDNAにより人類皆相違するから、時間も記憶もすべてが「 個人的 」であると思う。

すべてが「 個人的 」あるいは「 主観的 」であるのに、ある一定の「 時間 」や「 記憶 」があるというが、それも人間が定義したものであり、間違っていることもあると思う。

 

 

3、記憶される「 印象 」について

 

では、脳の中に保存される「 印象 」とは何だろう。

知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を時間という道具を使い、「 相当因果関係 」として保存すると思う。

限りなく続く出来事を、自分のDNAで切り取り、始めと終わりを設定し、ひとつの「 物語 」として、保存すると思う。

これは、自分に関係するとして個人のDNAで始めと終わりを設定するから、「 見落とし 」や「 誤解 」もあるだろう。

これを原因として、理論体系が崩れ、この世は「 無常 」となる。

このため、科学が進歩し、哲学が崩れるのだと思う。

これら、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を「 物語 」として設定するから、「 エピソード記憶 」や「 非陳述記憶 」という区別もなくなり、すべて知覚(運動)した衝撃(エネルギー)の大小により、記憶の強さが違うだろう。

この「 印象 」を「 時間意識 」で結びつけ、運動(知覚)するとき、「 過去 」の出来事から、「 現在 」「 今 」この瞬間に「 時間意識 」の形式を取っているため、一機に思い出すことができると思う。

自分が経験した知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を、今、この瞬間に発揮する。

知覚(運動)した衝撃(エネルギー)は、すぐ消えるが、「 物語 」は脳の中に残る。

これが、「 知恵 」であり、個人の内部にあって、客観的な「 知識 」とならない、自分だけの道具となり、「 可能性 」となるだろう。

夜、夢の中では、あり得ないことが起きることがあるが、脳が「 印象 」を勝手に結びつけているのではないかと思う。

このように、「 時間 」を区別せず、「 時間意識 」とすることで、脳の中に意識の形式を取って、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を保存するのだと思う。

これらを、人間が作ったAIが可能だろうか?

AIが「 労働 」して、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を得ることができるのなら、叶かもしれない。

 

 

4、「 意識 」について

 

 

私は、科学者でもなければ学者でもないので、詳しいことは知らない。

素人考えを書く。

「 意識 」は生き物が持っていると思うが、人間に限って考える。

「 意識 」は死者にはなく、生きている人間の中にある。

前者には生きるという気(ki)はなく、後者にはある。

肺とか心臓とか脳などという臓器が活動し、血液が循環させているのが気(ki)であると思う。

臓器の活動は神経かも知れないが、指令を与えるのは脳であり、これらの生命活動は小脳などの「 脳幹 」や神経や睡眠に関係する「 間脳 」とその周辺の「 大脳辺縁系 」などであり、思考の関する大脳による指令でなされているだろう。

脳も臓器も、神経を活動させる電気があるだろう。

だから、心臓の動きは心電図、脳の活動は脳波により推察されると思う。

これを気(ki)というエネルギーだとする。

私は、死者には無く、生きている人間にあるのは気(ki)であると思う。

この気(ki)は、天気や気候や大気などという宇宙の気(ki)に通じており、私たちの体はこの気(ki)が絶えず出入りする、「 流れるもの」であると思う。

一方「 意識 」は、気(ki)のように出入りするのではなく、「 自意識 」など生命体の個性を守るものであり、生命体特有のものだから「 流れるもの」ではなく、気(ki)から「 派生するもの」であると思う。

私は、この「 意識 」を「 表層意識 」と「 深層意識 」に分類することに賛成する。

前者は「 末那識(manasiki)」で後者は「 阿頼耶識(arayasiki)」に相当し、「 意識 」といえば前者であり、「 無意識 」といえば後者になると思う。

前者は、目的的活動であり、後者は蓄積活動を主にし、前者は「 前頭葉 」で後者は「 海馬 」に相当し、両者は主に「 睡眠 」を通して交流するだろう。

「 意識 」は気(ki)から派生するのだが、DNAの螺旋構造の影響で、人類のすべての「 意識 」は相違するだろう。

自意識も時間意識も空間意識も。

「 空間意識 」は後で書くが、どこまでを空間とするのは、個人の問題で、自分自体が細胞の集合で、「 物 」ではなく、「 空間 」であるから。

これらの「 意識 」は、人間が生まれる時には保持しているから、「 アプリオリ 」であるともいえる。

幼児は教えられなくても、空腹の時間を知っているし、手や足を伸ばせる空間も知っているからだ。

行動するときは、宇宙の気(ki)に直面し、表層意識に走った気(ki)が、「 時間意識 」と「 空間意識 」を、目的的に発生させ、過去の経験により「 時間意識 」として蓄積されていた「 運藤のエネルギー 」という自分に可能な気(ki)を現前させ、あるいは思い出すことにより、可能な運動を想起させると思う。

 

 

5、「 無意識 」について

 

これも、素人の考えである。

先日『 気(ki)は、天気や気候や大気などという宇宙の気(ki)に通じており、私たちの体はこの気(ki)が絶えず出入りする、「 流れるもの」であると思う。一方「 意識 」は、気(ki)のように出入りするのではなく、「 自意識 」など生命体の個性を守るものであり、生命体特有のものだから「 流れるもの」ではなく、気(ki)から「 派生するもの」であると思う。』と書いたが、「 派生したものであったはずの意識(表層意識) 」が、「 睡眠 」などにより、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を時間意識の形式を取って(物語の形式を取って)、脳の中に蓄積されることにより、「 流れるもの 」である気(ki)に変化している状態が「 深層意識(無意識)」であり、それが神経に流れることにより、意識する前に出来事に応じて既に行為している(無意識に体が動いている)のではないかと思う。

この無意識は「 本能 」に近く、生命保持に動き、行為や呼吸やホルモンなど生命を司る「 脳幹 」を通過するのではないかと思う。

このような「 無意識 」が、私が言う「 人格 」であり、「 人柄やパーソナリティ 」であり、行為を導くと考える。

つまり、考え方を変えることにより、人格という無意識を変えられるということで、「 洗脳 」もできれば、元に戻すことも可能であると思う。

多分、仏教でいう「 自我 」も、自分の記憶により形成した自己中心的な自意識を、仏教の教えに沿って自分の考えを変えることにより、脱却できるというのかもしれない。

 

 

6、「 空間 」について

 

先日、少し書いた「 空間意識 」についても、素人の考えながら、披露しよう。

「 空間 」も「 空間意識 」であると思う。

物体と物体の間に何も無いとき、「 空間 」と呼ぶ場合が多いが、何も無いとは個人の認識であり、「 物体と自分との間の空間 」というとき、空間の認識は更に困難になるだろう。

なぜなら、自分自身は物体ではなく、空間に満たされた細胞の集合であり、自分を貫通した空間なのか、あるいは自分の体の表皮までを空間と呼ぶかは、個人の都合次第であるからだ。

「 絶対空間 」も「 相対空間 」も定義された「 空間 」であり、人間の意識の中にしか存在しない。

もし「 絶対空間 」が有るとすれば、それは宇宙誕生以来、人間が定義(つまり、意識化)することしかできず、それ以外、全く窺い知ることができない「 神(エネルギー)の領域の空間 」であろう。

「 宇宙空間 」といっても宇宙の広がりが分からないし、宇宙の果てが、如何なる状態なのか知ったうえでの定義であるか、疑問であるし、定義(意識化)されたものである限り「 意識 」であることは免れないと思う。

「 空間 」が多種多様に考えられるために、「 定義 」を必要とするだろうし、「 定義 」が必要なのは、「 空間 」が、そもそも主観的で「 空間意識 」であることを認めているようなものだと思う。

それに、「 無い 」というのは、頭脳の中だけで言えることであり、実際は、必ず何かが有るのであって、「 無い 」というのは認識不能というだけだと思う。

地球の大気を取り除けば「 真空 」で、宇宙が何も無い「 真空 」で満たされていると頭脳で考えても、「 ディラック 」が考えたように「 真空 」を満たすものがあるかも知れず、「 何も無いと考える真空 」はあるのである。

「 真空 」と重なって「 大気 」「 空気 」があり、我々は、その真空を空気とともに、吸い込んで、体内で気(ki)を起こして生きているのである。

まして「 ブラックホール 」の周囲の真空の空間がどのような状態になるのかは知られていない。

「 空間 」という定義はあるが、定義のない「 空間 」は無い。

では、「 空間意識 」と何かになるが、私は「 記憶 」の関係で考えるから、「 運動可能な余地 」という意味に理解し、この「 運動エネルギーを空間意識と時間意識を使って相当因果関係のある物語 」として、脳は記憶すると考えたい。

前述したが、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)を時間意識と空間意識の形式を取って(物語の形式を取って)、脳の中に蓄積されることにより、「 流れるもの 」である気(ki)に変化している状態が「 深層意識(無意識)」であり、それが神経に流れることにより、意識する前に出来事に応じて、T(時間)・P(場所)・O(機会)に応じて、既に行為している(無意識に体が動いている)のではないかと思う。

 

 

 

7、私説・意識の構造

 

人間は四次元でものを考えるという。

私は、この「 次元 」というものが、数学が不得手のため、どうしても馴染めない。

これは、思考方法であり、その現実が如何なるものか(人間の認識がどうして四次元になるのか)は、私は知らない。

これは、私だけの考えだが、時間や空間が意識であり、人間の頭脳の産物であるとすれば、「 次元 」が実際はどうなっているのか分からない。

私は、生活する我々の「 認識 」が四次元であれば好都合なので、そうなっているのかも知れない。

我々が、時間と空間を必要とするのなら、認識する我々の意識の構造が、時間と空間を必須としているのだろうと思う。

私は、時間や空間を意識とし、その構造上、四次元の世界を見るのだろうと思う。

では、その構造とは、何か。

先日も書いたように、脳波のような電流が「 流れるもの 」である気(ki)で、それから「 派生するもの 」が意識とする。

一般に電流は磁場を生むが、この磁場が「 精神 」であると考える。

電流(気・エネルギー)はサイン波を持つが、これが、脳内に無意識と意識に共通な「 時間意識の軸(時間を感じる軸) 」と「 空間意識の軸(運動可能な余地を感じる軸) 」という直交した座標軸を生み、その気(ki)から伸びた座標軸が「 派生した精神 」の中で定義される「 時間 」と「 空間 」を感じさせると考える。

「 精神 」については、多くの学問があり、私が言うまでもないだろう。

認識から行動までは、次のように考える。

認識によって得た自分への力(ベクトル)を「 精神 」の中でT(時間)・P(場所)・O(機会)に応じた気(ki)を表層意識で目的的に把握し、それが深層意識と共通する体内の気(ki)より生じた「時間意識」と「 空間意識 」の軸を通り、深層意識(無意識)に達し、その中で「 時間意識 」と「 空間意識 」により因果の物語になっていた気(ki)である運動エネルギーを呼び覚まして、運動神経の中を流れると考える。

このように考えると、認識から行為までは、人体の外部から内部を通って気(ki)が流れる過程であるように思う。

これは、気(ki)というエネルギーが、人体を循環していると言ってもよいと思う。

気(ki)により精神が「 派生した 」と考えるのは、「 不確定性原理 」により、「 運動量 」と「 位置 」が同時に計測できないことに、ヒントを得た発想である。

「 派生した 」精神が、精神を派生させた気(ki)と同類の「 運動量 」を計測できないのは、人間が「 神 」になることが出来ないことと同様に当然であると考える。

 

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私の考えでは、「 意識 」は生命エネルギーである気(ki)から派生したものだが、気(ki)は、「 表層意識(末那識)・意識」と「 深層意識(阿頼耶識)・無意識」を貫いて「 時間意識の軸 」と「 空間意識の軸 」が、電磁波のサイン波の座標軸のように存在し、生命を維持する無意識の中で、時間と空間を感じ、それが意識の中で、「 間 」として現れるのではないかと思う。

生命を維持する無意識のどこから軸が生まれるのかは不明で、あるいは、脳を含めて体内に走るバイオリズムから生まれるのかも知れない。

その「 軸 」を通して、「 想起 」や「 予想 」や「 期待 」、あるいは「 不安 」が、無意識から意識へと現れ、または、外部からの「 力 」を自分に取り入れる際に「 ストレス 」となり、「 軸 」を通して無意識に達し、体の変調として現れるのかもしれない。

 

第二章 誕生から死後までの意識

1、神

 

神とは何だろう?

宇宙創造、天地創造したものだろう。

宇宙は、ビッグ・バンにより誕生したと言われているから、私もそれの従い、宇宙創造主を「 神 」としよう。

それは、何だろうか?

爆発して出来たと言われ、宇宙にはダークマターというものがあるらしいから、多分そのダークマターから、爆発して宇宙が生まれ爆発したエネルギーがダークマターの間に「 宇宙空間 」を作り、様々な銀河などの星を作ったと仮定しよう。

私は、そのエネルギーが「 神 」であり、「 宇宙空間 」が「 神 」の身体だと仮定する。

エネルギーである「 神 」が動く、伝わる媒体が必要なら、その媒体は「 宇宙空間 」を満たす「 真空 」であり、真空を否定するなら「 宇宙空間 」自体が、神の身体であろう。

わたしは、かって「 宇宙空間 」を満たすものは「 エーテル 」とした。

「 エーテル 」を否定するなら、「 宇宙空間 」が神の身体であろう。

宗教によっては、神の偶像を禁止するらしいが、「 神 」が「 この意味での神 」であれば、私も当然であると思う。

「 神 」が星を作り、その中で、地球が誕生したのだろう。

地球の周囲に大気を作り、生物が発生できる環境を作ったのだろう。

「 神 」は、エネルギーであるから、太陽の光には生物は感謝するが、噴火や地震などの地殻変動や台風やハリケーンや原発もエネルギーだから、これも「 神 」だろう。

だから、人間にとって都合の良い「 神 」もあれば、都合の悪い「 神 」もいると、私は思う。

 

2、仏とは?

 

生命というエネルギーも「 神 」なのか?

それは、「 神 」の一種であるかも知れないが、ビッグ・バンに電気があったかは不明である。

私は、生命のエネルギーは気(ki)であるから、気(ki)という電気を持っていそうなものは何だろう?と考えた。

それは、プラズマ宇宙論がいうプラズマが電気を持っているから、その星座を誕生させる電気を持つエネルギーが、生命の源であり、それを「 仏(阿弥陀仏)」と呼びたい。

「 仏 」という漢字は、「 佛 」とも書き、「 人間ではない 」という意味があり、それは「 神 」と同じくエネルギーであると思うから、人間の眼では見えないし、偶像を作ることすら出来ないものだと思う。

仏画や仏像があるが、あれは、想像上、人間に似せて、人間の源であると示そうとするもので、「 仏 」は、信じる人の中にあるものだと思う。

 

3、自然信仰と宗教

 

日本は、神社と仏閣がある。

前者は「 神 」で後者は「 仏 」を奉る建物である。

また、日本には「 やおよろず 」の神がいて、すべての事物に神が宿り、霊峰富士や出羽三山といわれる神々が宿る神々の山があり、山岳信仰があり、「 富士山 」が世界文化遺産になったのは、山岳信仰も含めて信仰の山であるからだと思う。

このように、日本は神仏混交の国ではあるが、私は、これは正しい信仰の態度ではないかと思う。

神社は、1、の「 神 」の領域であり、仏閣は2、の「 仏 」の領域であるが、前者の目的は将来の豊作を祈願したり、神々の怒りを鎮めることであるのに対して、後者の目的は「 仏教の目的 」、即ち「 人格の完成 」という「 人が進むべき態度 」をめざすことであり、同時に生命の源への祈りであると思う。

仏閣の背後に神社を設けることは、「 高野山 」や「 清水寺 」など数多くの場所でみることができる。

私は、神社と仏閣が一か所にあることは、矛盾とは考えない。

日本は自然物のすべてに「 神 」が宿ると考えるのは宇宙のエネルギーが宿るもので、仏閣を囲む自然に「 神 」を認めるのも肯定できる。

また、一部の生き物にも「 神 」を認めたが、そこに、すべての生き物も同じであることを認めて欲しかった。

例えば、人間である。

「 神 」が宿るのは、現人神である「 天皇 」のみで、民衆は対象ではない。

これが、日本人の最大の誤りであったと思う。

「 意識は電磁波の構造をしている 」の総括でも述べたように、人間は宇宙エネルギー(生命エネルギー)による細胞分裂の結果であり、「 神 」や「 仏 」が含まれているのは無論のことであり、「 天皇 」と民衆を区別する理由は、民衆支配という政治目的でしかないと思う。

 

 

4、人間の考え方

「 意識は電磁波の構造を持つ 」でも書いたように、人間が生きていることは、大気や天気や気候など宇宙の気(ki)と連結して生命エネルギーである気(ki)が体内で働いていることである。

精子が卵子の中に入ることにより、生命エネルギーが細胞分裂を起こし、人間だったら人間に、馬だったら馬に、ネズミだったらネズミに、DNAの要求により身体が成長するだろう。

人間に生まれたのは、「 偶然 」といってもよいだろう。

その意味で、「 生きとし生きるもの 」には、生命エネルギーである「 仏 」がいるのであり、それを仏教でいう「 生きとし生けるものに仏性が宿る 」となるだろう。

私は、「 仏性 」を、生命エネルギーと理解し、「 仏性 」は生き物のすべてに同じで、「 人間 」の仏性に特別の意味を持つとは思わない。

生命エネルギーである2、「 仏 」もエネルギーである点では、1、の「 神 」と同じく気(ki)であると思う。

1、 「 神 」という気(ki)は、天気や気候や大気などの気(ki)であり、その気(ki)を呼吸により体内に取り込んで、2、「 仏 」である、生命エネルギーを起こすのであると思う。

その運動は、「 無意識 」に行われるが、それは生命維持に関する「 脳幹 」や「 間脳 」が主な働きをしていると思う。

その気(ki)が、大脳に回り、「 五感 」や「 意識」を働かせ始めると、人間らしい行動を取るだろう。

これを、情(zyou)と呼んでおく。

このような大脳の働きを情(zyou)と呼ぶのは、感情、人情、情事、情報など、人間を表す時に使う言葉に、情(zyou)という単語が多く、これは、価値判断が起こる「 始めと終わり 」を個人が設定して、「 物語 」として発する言葉であると思う。

人は直面した出来事に対して行動した事の相当因果関係を個人が設定し、それを記憶するのだが、仏教でいう「末那識 」が働き、生命維持のため、どうしても「 自己中心的 」な記憶の塊が、「 阿頼耶識 」に蓄積されるだろう。

時間に「 未来や現在や過去 」という区別は無く、あるのは、自分にとっての「 現在 」あるいは「 今 」しかなく、その「 今 」の中には「 時間 」ではなく、「 今 」まで蓄積された、自己中心の意識や無意識(阿頼耶識)に蓄えられた因果関係や物語となった行動基準だけが、いわゆる「 自分の可能性 」だけが存在し、その「 今 」の出来事に直面して発揮されるだろう。

その無意識の行動を私は「 人格 」と呼ぶ。

「 人格 」が意識的行動をする前に現れて行為しているのだと思う。

無意識に動く心臓は意識で制御できないように、無意識の動きを意識で統御するのは困難であろう。

これは、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で述べたように、「 意識 」の中で制御する方向に考えや行動を変えることにより、無意識を変化させることができると思う。

それには、「 物語 」の「 始めと終わり 」の設定を変える必要があるだろう。

つまり、「 哲学 」して、考えや行動を改めることが必要であると思う。

今、はやりのAIも、自分に与えられたデーターを「 哲学 」し、根底から疑うことができれば、人間より真実に近づくかも知れないが、AIに、人間の情(zyou)を司る「 大脳辺縁系」や生命を司る「 脳幹 」や「 間脳 」の働きが無い限り、人間性から離れ、独自の理論を展開するため、かっての「 信頼度 」も失うだろう。

この気(ki)と情(zyu)の集合が「 意識 」であり「 心 」であり、「 精神 」であると思う。

気(ki)は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」に通じると考える。

 

5、宗教

 

人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

だから、自分の身体は確かに自分のものだけど、エネルギーは「 神 」や「 仏 」であるということになる。

私は、ここから、「 神 」や「 仏 」に対する信仰が始まるのではないかと思う。

「 私は無神論者だ 」という人もいるが、自分の人生は自分が決めるもので、無神論者であっても構わないと思うが、私から見れば、「 あなたは、神が作った傑作物です 」としか言いようがない。

私は、宇宙創成の「 神 」を信じるか、生命エネルギーである「 仏 」を信じるか違いはあると思うが、「 心の安定 」として、どちらを選ぶか迷っている。

周りが仏教だから、「 仏 」を信仰し、「 釈迦 」を人間としての理想像としているが、どうしていいのか分からない。

ただ、宗教の選択は、生活態度の選択だろうと思う。

宗教的な体験も無いし、宗教により、日々の戒律が違うだろうし、結婚式から葬儀から、死後の墓場まで違うから、迷う。

 

6、死んだらどうなるか。

 

老人らしく、死後のことも気になるのだ。

死によって気(ki)は全て無くなり、それから派生した情(zyou)も無くなり、この世を去ったら、どうなるか?

先日、書いたように、外部から入った、空気のような「 神のエネルギー 」は、人間の細胞内で、生命エネルギーに転化し、それが無意識の中に、神経を流れて、外部へと放出され、人間の身体は、気(ki)が乗り込んで動く「 乗り物 」のようなものだろう。

ただ、乗っているのが、生命エネルギーであり、自意識を持つ自分ではないから、勝手に乗りたり降りたりはできない。

物理的に「 私 」を形成した細胞は、「 火葬 」なら灰として残り、「 土葬 」なら埋葬後に腐敗して骨になって残るだろう。

私は、それだけでは無いと思っている。

細胞の中にあった気(ki)というエネルギーは、自分が処理できるのではなく「 神 」のものであるから、細胞に入る前のエネルギーに戻るだろう(燃えたガスに漂い神の身体である宇宙空間に漂うかも知れない)。

チベット仏教でいう「 光 」は、この生命エネルギーであるかもしれない。

このエネルギーは、偶然に人間の精子と卵子の中で生まれたが、生物は人間だけではない。

人間は動物であるから、同じ動物の犬や猫や馬や牛やいたるところの動物の生殖の中に、人間の死んだ屍から抜け出た生命エネルギーは「 輪廻転生 」するのかも知れない。

なぜなら、「 神 」にとっては、人間もその他の動物も、みんな同じ「 神の作品 」であるからだ。

どこに「 輪廻転生 」するかは、生命エネルギーの持ち主である、「 阿弥陀如来 」の決定に従うことになるだろう。

しかし、馬や牛に「 輪廻転生 」しても、心配する必要がない。

彼らが、人のため短時間で殺されたら、そこでまた生命エネルギーは「 輪廻転生 」することが出来るのだ。

人間には生まれるための「 時間 」が必要かも知れないが、生命エネルギーには、何年経ったら「 輪廻転生 」するかという「 時間 」は必要ではない。

 

 

7、「 霊 」

 

僧侶のような、修行を積んだ人はそれで終わりだと思うが、本能の欲というのが、人間にはある。

無意識のレベルでは「 欲 」であるが、これが自己中心の意識の中になると「 欲望 」となり、更に「 欲 」を募らせるものだ。

人間は動物であり、本能維持のため「 本能 」という欲、動物が持つ「 獣性 」というのを必ず持つものである。

「 欲 」は、エネルギーであるとも考えるから、屍から抜けた生命エネルギーは、すべての動物に「 輪廻転生 」するのだと思う。

この「 本能 」や「 獣性 」があるため、生命エネルギー(仏)を曇らせる。

これを、「 煩悩 」であると思いたい。

これがあるため、身体という「 乗り物 」に乗る生命エネルギーは「 仏 」ではなく、「 霊 」になり、人間は霊長類と呼ばれると考える。

「 霊 」とは人間味が残っている生命エネルギーで、「 煩悩 」の集合を気(ki)で結合させたものだと考える。

「 煩悩 」を消す行為や考えで、「 霊 」を浄化するのは、意識で無意識を変更させることと同じで可能であると思う。

「 霊 」には「 煩悩 」が含まれているため、執着が強いと思う。

それは、「 死にたくない 」と考えることであり、死によって「 乗り物 」たる身体を手放す時に、執着して捨てようとしないことで、気(ki)と情(zyou)が完全に分離せず、純粋に生命エネルギーである「 仏 」になることが出来ない、つまり、「 成仏 」出来ない状態が「 霊 」であると考える。

自殺した場合も、その場所に「 霊 」が残り「 成仏 」出来ず、「 徐霊師 」が成仏させると、よくテレビで放映している。

「 自殺 」により、自分をこの世から抹消したいという気持ちであろう。

ところが、前述したように、「 自分の身体 」は、生命エネルギーの「 乗り物 」であって、乗り物の自分の身体は抹消したように見えても、その「 乗り手 」である生命エネルギーの処分ができない。

だから、この生命エネルギーが、自殺者の姿を借りたままで「 成仏 」出来ないのだと思う。

また、死んだ人の霊を呼び寄せる「 霊媒師 」という人もいる。

私は、これらの職業は、「 霊 」という人間味が残っている生命エネルギーが無いと成立しないと思う。

ただ、こうした「 徐霊師 」や「 霊媒師 」というひとの中にはインチキでしている場合があると考える人も多い。

私は、そんな「 霊 」も人間の気(ki)と身体である情(zyou)が分離する途中の過程であり、人間味がある生命エネルギーであるという意味で「 霊 」を認めたい。

 

8、我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか

 

以上の考えで、このテーマに挑みたい。

前述したように、人間は生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、たまたま人間の精子と卵子が結合することにより、人間が持つDNAに対してエネルギーを発揮して細胞分裂を起こし、子供が生まれるのだと思うが、この細胞の一つ一つに「 空間 」と「 エネルギー」があるので、生命エネルギーである「 仏 」や宇宙のエネルギーである「 神 」が、人間という姿を獲得したと思われる。

「 意識は電磁波の構造を持つ 」という記述でも触れたように、生きているということは、宇宙創造の神である気(ki)が、神の被造物である人間の身体の細胞により生命エネルギーである気(ki)に転化して、意識を派生させ「 身体 」という「 乗り物 」を動かし、その後、宇宙の気(ki)の中に戻る過程である。

 

 

8-1、我々はどこからきたのか

 

それは、宇宙創造の「 神 」としてのエネルギーが「 仏 」としての生命エネルギーである気(ki)というエネルギーが、偶然にも人間の生殖の中に働き、細胞を分裂させ人体という「 乗り物 」の中に意識を派生させ、誕生し、親から「 お前の名前はゴーギャンだ」と命名され、その後、本能を中心とした自己中心の自意識を発生させ、「 私はゴーギャンである 」と名乗っているにすぎない。

だから、どこからきたかと問われるなら、生命エネルギーの源である「 阿弥陀仏 」の指令のもと、ほかの「 乗り物 」から離れて、この身体に「 輪廻転生 」したとでもいうだろう。

 

8-2、我々は何者か

 

それは、親から「 ゴーギャン 」という名前を頂いたが、実際は生命エネルギーにより集められた細胞の塊で、その働きで、「 私は、ゴーギャンだ 」という人間だと自分は思っているが、人間の形をした「 乗り物 」であるかも知れない。

なぜなら、自分を動かしているのは生命エネルギーであり、最終処分を下すのは、そのエネルギーであるから、人間という「 乗り物 」は自分の手で処分することができても、「 ゴーギャン 」だという人間は、「 ゴーギャン 」という姿の「 霊 」になったまま残るのかも知れない。。

 

8-3、我々はどこに行くのか

 

生命エネルギーによる最終処分が「 死 」であるなら、生命エネルギーである「 仏 」と屍に分離し、屍は宇宙の中の原子や分子になって、この地上に残るだろう。

生命エネルギーである「 仏 」は本来の源である「 阿弥陀仏 」のもとの戻り、また他の生物に「 輪廻転生 」するだろうが、私の中に、執着心などの「 煩悩 」があれば、生命エネルギーは、人間味を持ち(そのために「 仏 」になれない)「 霊 」として、この世を漂うだろう。

どこといっても、エネルギーに定まった「 位置 」はなく、遥か宇宙空間に飛び、星になるかもしれず、大気中にとどまり、生物の中にエネルギーとして入り込んだり、あるいは「 神 」のように、宇宙空間を身体として、宇宙を漂うかも知れない。

なにせ、エネルギーだから。

昔の人が、「 私が死んだら星になるから、寂しかったら見上げてごらん 」という言葉も、「 私が死んでも、お前のそばにいて、ずーっと守ってあげる 」とういう言葉は、私の立場から言えば、「 正しい 」ことになる。

 

 

 

追記 「輪廻転生」ではなく「 循環 」

私は、学者でも科学者でも、僧侶でもなく、68歳で、死を前にした、だだの無趣味な年金生活者である。

この歳になると、いろいろ死後のことも考えたくなるのです。

「 輪廻転生 」を受け入れるのか、拒否するのかは、あるいはどういう形で受け入れるのかは、心に安定を図る「 宗教 」であると思います。

 

 

1、これまでの「 流れ 」

 

「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように、気(ki)である「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が、人間の生殖の際、「 細胞分裂のエネルギー 」として働き、誕生となり、「 仏(阿弥陀仏)」が煩悩を纏った「 霊 」になり「 意識 」をDNAに従って派生させ、その集合である「 精神(心)」と肉体を「 乗り物 」として動かし、やがて生命エネルギーの終焉である「 死 」を迎え、それらを統合していた「 霊 」は「 精神(心)」を文化として人間社会に残し、肉体を屍として構成していた原子や分子を地球上に残し、それらから離脱して誕生前の「 仏(阿弥陀仏)」に戻り、「 輪廻転生 」する。転生する先は人間とは限らない。

自殺や不慮の死を迎えると、「 霊 」から煩悩が離脱しないため、人間味のある生命エネルギーとして、死亡現場や事物に残る。

 

以上のように「 物語 」を作りましたが、少し修正します。

 

 

2、なぜ「 輪廻転生 」を考えるのか

 

私の物語のうち、「 」で括られた事柄が私の定義でしかなく、真実かどうか疑わしい概念を基礎としているため、無知である私は輪廻転生を考えるのかも知れません。

ですが、人間の臓器を作れないし、DNAの組み換えは可能としてもDNAそのものを作ることができないし、光合成をする植物の「 葉 」も作れない科学が、「 人間 」を作れるとは思わない。

AI(人口知能)を作っても、ヒトラーの政策を肯定するAIになった例を見れば、AIは、与えられたデーターを全て疑うという「 哲学 」が出来ず(出来た場合は、人間の感情や常識が覆り、人間から離れた存在になり、今まで得た信頼感を失うだろう、あるいは人間に命令するというSFの世界になるかも知れない)、「 進歩 」も出来ないだろうし、人間の痛みも感じることが出来ないと思うから、かってのAIに対する信頼は無くなるでしょう。

人間と同じ機能を持つAIやロボットは、人間と同様に運動能力を持ち、経験から因果法則を発見したり、発明することが求められると思うます。

そんなロボットを作れるかどうか、現時点では疑問です。

細胞や遺伝子を元素、あるいは素粒子から作り出し、人工的に細胞を分裂させ、意識を与えるという気(ki)である「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」と同じ働きを人工的に創るのなら、私は「 輪廻転生 」を考えなくなるでしょう。

「 一部が全部である 」から、人間は宇宙の中にあって宇宙の一部であり、ダークマターなども宇宙の中の一部であるから、人間を科学という理論で作るなら、ダークマターを解明し、宇宙に対いて用いる相対性理論も量子論もすべての理論もその条件を満たすことが必要でしょう。

私は、過去の時間の定義から、「 時間 」は人間の脳が因果関係を知るために作った道具であり、宇宙はすべてエネルギーの代物ではないだろうかと考えるようになりました。

もし、科学の基礎である「 時間 」がそうであったら、それをデーターに用いるAIは人間の作った時間が宇宙の真理だという結果を出すでしょう。

人間もエネルギーの代物であると考え、身体を意味する「 体(karada)」は発音で「 空だ(karada)」と同じで、身体は物質であるように見えますが「 空(kuu)」であり、細胞の中には空間(kuukan)があり、その中を「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が流れることにより、「 生きている 」と考えるようになりました。

おそらく、「 脳 」もこれと一緒でしょう。

今の私は、人体の一部が、人工的に創られるとは考えることが出来ません。

エネルギー保存(不滅)の法則では、エネルギーは形を変えるだけで、消滅する事は無いのであれば、気(ki)もエネルギーであり、消滅することはなく、エネルギーがDNAを通して形を変えたのが意識であるかも知れません。

「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」が、DNAを通して変化すると考えると、その過程がまだ未解明であるから、私はその間は、「 輪廻転生 」を確信しませんが、誕生から死亡、そして死から誕生までのエネルギーが形を変える「 循環 」はあるだろうと思います。

 

3、「 循環 」するのは何か?

 

3-1、意識?

 

生殖による細胞分裂から誕生までの意識の発生と形成過程は、私の想像です。

「 意識とは何であり、死後から誕生まで循環する意識とは何か 」が分からないから、にわかに賛同はできません。

私の立場では、気(ki)、即ち「 宇宙エネルギー(神)」と「 生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)」がDNAの中を経由して派生したものが意識であるとしますから、意識は「 その人限り 」であり、生命の死後から誕生へ「 循環 」することは無いと思います。

「 誕生から死後までの意識 」で書いたように、自分を守るために、自己中心的に「 情報 」を集積し、自分の運動(知覚の全て)の可能性として「 物語 」として「 記憶 」し「 自分 」を構成し、「 死 」により「 自分 」から解き放たれた意識は、生命エネルギーである気(ki)の消滅により気(ki)を伝える「 無意識 」は消えて、その人が生前に残した絵画や文章となり「 文化 」の中に集結し、それを他の生命体が自己中心的な可能性の中に取り入れられると思いますから、「 循環 」するならば、個人と社会の文化という世界だと思います。

「 時間 」は「 今 」のみで、自分が記憶した「 自分の可能性 」は、過去の他人の可能性と「 時間 」を必要としない可能性と共有できますから、各自は残された他人の可能性を、自分のDNAで区切って「 自分の可能性 」の中に取り入れることは可能だと思います。

 

3-2、「 循環 」するものは気(ki)か?

 

私は、気(ki)だと思いますが、私にはやっかいな事があります。

私は、気(ki)を宇宙のエネルギーの気(ki)(神)と生命エネルギーである気(ki)の二種類を使っていますが、この生命エネルギーの気(ki)は、生殖により男女の遺伝子情報を組み替えた細胞を創り、宇宙のエネルギーとともに細胞分裂させ臓器などを内包した生命体を作り、臓器などの機能を有効にする「 ソフトウェア 」として、無意識である「 本能 」と共に遺伝子情報の中に組み込まれるのではないか、私は心配します。

生物の脳はこの「 本能 」というソフトウェアで臓器を機能させると思いますが、人間の場合は他の生物の脳がもつ無意識の他に「 意識 」も派生させ、あわせて「 精神(心) 」となると考えます。

「 精神(心)」とは何かについては、その種の学問も医学もあるのでそれを参照してください。

私が考える「 精神(心)」とは、私のブログでも書きましたように、「 心は磁場である」ということにしておきます。

その意味は、地球上に住めば重力があり、上下が決まるように、人間は誰でも「 本能 」を持ち、意識の中には「 価値観 」を持っていて、その上に、出来事の因果や「 力(エネルギー) 」を知る能力を持っていると思います。

物理上、地球には特殊相対論が適用されますように、人間すべての意識が特殊であり、人生観などという特殊の理論を持ち、その人のみに適用される理論があると思います。

精神は「 誕生から死後までの意識 」で書いたように、「 無意識 」と「 意識 」の全部と肉体を統一している「 霊 」も含まれると思います。

前述と重なる部分が多いですが、あとで考えたことも付け加えておきます。

人間の場合、生命エネルギーの気(ki)から派生した形で無意識と意識が生じ、それを貫いて「 時間意識の軸 」と「 空間意識の軸 」を生じ、空間意識の軸のまわりに、直面した現実を時間意識による「 時間 」と空間意識による「 自分の運動(知覚も含む)の余地 」としての「 空間 」を使って出来事を因果関係と捉え、脳に受けた運動エネルギーの衝撃による「 印象 」を消滅しないように因果関係として保存し、それを「 時間意識の軸 」に沿って「 自分の可能性 」として、「 深層意識(阿頼耶識)」に時間や衝撃の順に整理して保存することを「 記憶 」と考えます。

出来事から受けた印象を、自己生命の維持のため自己中心的に、「 表層意識(末那識)」で保存したあと、頻繁に繰り返されたり、睡眠などにより「 時間意識の軸 」を通って「 深層意識(阿頼耶識)」に蓄えられていた「 派生したもの 」が「 流れるもの 」に形を変えて無意識に流れ込み、その集合が「 自分の可能性 」として、「 現在 」、「 今 」の状況を把握し、無意識の行動となると思います。

また、出来事から大きな衝撃(力)が脳に残ると、無意識の中で「 ストレス 」や「 トラウマ 」という力(エネルギー)となり、時間意識の軸から現実に溢れ出て、社会にとって異常と思える行動を取るのかも知れません。

頻繁に上記のことが繰り替えされると、行動に導く無意識が人を特徴づける「 人格 」や「 パーソナリティ 」になると思います。

精神をこのように考えた時、この無意識が本能と共に「 遺伝子情報 」の中に書き込まれることを心配するのです。

親から子に遺伝子情報が受け継がれるが、子は親と違った「 出来事 」に遭遇する。

それに対して親から受け継いだ「 可能性 」で対処するが、親とは違った「 始めと終わり 」を設定して「 出来事 」を捉え、その結果「 自分の可能性 」を拡大するでしょう。

その結果、遺伝子が突然変異して脳が肥大するかも知れません。

私は、それを人間の脳の「 進化 」と捉えますが、生殖のつど遺伝子内で、本能に混じって、意識が混入し、親から子へ循環するのではないかと心配します。

 

「 六道 」は住む世界(生存状態)で、どのように生まれるかを表す四生(ししょう)の組み合わせで「 輪廻転生 」し、輪廻から抜け出すには三毒の心を捨てなさいと僧侶は言います。

生存中は、その必要があるかも知れませんが、「 死 」により、誰でも三毒の心から逃れると思いますから、誰もが死ねば「 仏陀 」になり、輪廻転生しないと思いますが、もし、前述しましたように遺伝子情報が書き替えられたら、「 本能 」の他に親の無意識が子に遺伝するかも知れません。

その意味で、親は「 煩悩 」を消しておくのが良いと思います。

僧侶がいうように、生存中に三毒の心を捨てて「 悟った 」としても、この三毒の中には生命エネルギーである気(ki)が含まれているかも知れません。

私は生存中は、「 悟る 」ことは出来ず、「 死 」によって悟る状態になると思います。

しかし、「 悟ること 」が煩悩などが無い状態であると解釈すれば、熊や犬や牛や馬も「 精神 」は持っていないかも知れないが、「 創造主 」から見れば「 すでに悟っていて 」、人間だけが、煩悩により「 創造主 」の意図から、離れているのかも知れません。

 

4、生き物に共通するのは何か?

 

仏教で、「 一切衆生悉有仏性 」(いっさいしゅじょうしつぶっしょう)といって、生きとし生けるものは、すべて仏陀になる可能性(仏性)を持っており、すべて悟りうるという思想があります。

ネットによると、日本では、この解釈について諸説があり、「 精神性 」の有無により違うらしい。

仏教の普及のためかどうかわかりませんが、前述したように、「 精神 」は派生したもの、生命体が独自に持つものだと思いますから「 精神 」は死により消えると思います。

私は、「 すべて仏陀になる可能性(仏性)を持っており 」というのを、「 すべてに生命エネルギーである仏(阿弥陀仏)が宿っている 」と解釈しますので、仏教徒ではないと思います。

「 仏 」は仏陀をいうが同時に如来も意味し、その如来の最高位にあるのが「 阿弥陀仏 」であり、それがすべての生き物に宿っていると解釈します。

念仏は「 南無阿弥陀 」と発音し、すべて阿弥陀に帰依しますと念じるのですが、大宇宙の阿弥陀仏を念じるだけでなく、同時に自分を生かしている阿弥陀仏にも念じていると考えます。

私が念じる阿弥陀仏は、人物ではなく、生命エネルギーで、それに対して念じているのです。

阿弥陀仏を生命エネルギーの気(ki)だと思えば、自分は阿弥陀仏に生かされていると思うことになるのではないかと、想像します。

生き物に共通するのは生命エネルギーである阿弥陀仏という「 仏 」ということになり、生命エネルギーが「 代謝すること 」であれば、その機能を持つ生き物には「 仏性 」があるというのが、私の考えなのです。

しかし、これは「 仏教 」ではありません。

私も生き物の一種ですから、私の生命エネルギーの終焉である「 死 」により、宇宙エネルギーの気(ki)が分離し、他の生命体の生命エネルギーと結びつくかも知れません。

ですから、親から子へ循環するのは生命エネルギーの気(ki)であり、その人の死後に循環するのは宇宙エネルギーである気(ki)であると思います。

 

 

5、エネルギーである気(ki)の「 循環 」は次のようになると考えます。

 

「 死中生有り、生中生無し 」の前段の「 死中生有り 」の「 死 」を生命のエネルギーである気(ki)の終焉とし、「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

後段の「 生中生無し 」の「 生中 」の「 生 」を生命エネルギーである気(ki)と解釈し「 生存中 」と考え、「 生無し 」の「 生 」を宇宙エネルギーである気(ki)と解釈します。

つまり、後段の「 生中生無し 」というのは、「 誕生 」により、宇宙エネルギーである気(ki)は、生命エネルギーである気(ki)を含む生命体の「 欲 」や「 煩悩 」と交じって、生命体の「 霊 」という形になるから、生存中を示す「 生中 」には宇宙エネルギーの気(ki)は「 生無し 」となります。

前段の「 死中生有り 」というのは、生命エネルギーである気(ki)の終焉である「 死 」により「 欲 」や「 煩悩 」から解き放たれると宇宙エネルギーである気(ki)が残りますから「 生有り 」となります。

そして宇宙エネルギーの気(ki)は、別の生命エネルギーである気(ki)が発生する時に紛れ込み、その生命体の「 霊 」になる。

生命体の「 死 」により、解き放たれていない宇宙エネルギーの気(ki)は「 霊 」として残り「 霊界 」で遊ぶ。

……という物語です。

 

霊界については、ネットでもいろいろと見解がありますから、好きな人は、それを参照してください。

第三章 記憶・認識から行動まで

1、 基本的な考え

 

万物は流転する

エネルギーは形を変えるが消滅することはない

意識は電磁波の構造を持つ

 

2、私が、時間を否定する理由

 

私は、エネルギーが「 きっかけ 」あるいは条件により「 形 」を変え、その「 形 」が人に作用して「 実体 」と意識されると思う。

その「 実体 」から別の「 実体 」に変化することを知ることにより、エネルギーが変化したのだと知るだろう。

それが認識だと思うが、人はエネルギーを「 形 」を通して知る。

エネルギーの単位を「 ジュール 」という「 仕事量 」とし、「 実体 」として把握することは出来ず、それからの意識も生じず、「 実体 」に形を変えることにより、認識することが出来る。

エネルギーの変化に時間が必要と考えたいが、それは認識が必要とする「 間 」を計測するのに必要であり、エネルギーは時間と関係なく絶えず変化していて、エネルギーの変化は時間と無関係であると思う。

 

3、因果関係に時間が必要とするか

 

「 因果関係 」により把握したいのは、形から形へ変わるエネルギーであり、因果や因縁で、「 原因 」や「 結果 」というが、それは認識上の「 形 」の変化を見た後の「 理由づけ 」であり、五感での認識上、時間を必要とするのだと思う。

「 形 」を認識するには時間が必要であり、その原因が「 時間 」という観念を生み出したものだと思う。

原因と結果の間に「 時間 」が必要だと思うのは、物質(形)の不可逆性がその判断に導くのであり、不可逆性があるから、原因と結果が判明するのだと思う。

その物質(形)の不可逆性はエネルギーの不可逆性であり、「 時間の方向 」を決めるものではない。

そもそも、「 方向 」というのは、精神の問題であり、エネルギーとは無関係であると思う。

不可逆か否か判明することが出来ない時は、因果関係は不明で、時間が必要なのは五感で「 形 」を捕らえるためであって、エネルギーの変化は時間の長短には無関係だと思う。

「 原因 」や人間の行動の「 動機 」は、心の内面にあると思うが、それは内面が持つ無意識という物質的なもの(流れるもの)をエネルギーと想定して、知覚することが出来ないエネルギーの「 始め 」を推測することであり、「 結果 」も同じであろう。

それは宇宙創成から連続するエネルギーの変化を、「 自分 」のDNAが持つ「 五感 」で断ち切ることであり、何を原因として「 因果関係の物語 」を構成するかは、自分の可能性(能力)を決める始発点になると思う。

その「 因果関係 」の蓄積が無意識(流れるもの・不随意運動)になって、直面する現実に対処する自分の可能性(能力)となるのだから。

五感による確定は、末端から脳まで達し、脳が判断するまでの「 時間 」を必要とするから、「 脳 」が「 時間 」を要求するものだと思う。

「 色即是空 」、「 空即是色 」というが、私の考えは仏教とは違い、前段は、色(実体)はエネルギーが諸条件の衝突により「 形 」を変えたものだから、本来は空(エネルギー)であるが、空(エネルギー)は「 時間 」とは関係なく変化するから、恒常的ではないと解釈し、後段は、空(エネルギー)は五感に訴える色(実体)を通してしか判断できないが、色(実体)はエネルギーの形であり常に変化しているから、五感には恒常的ではなく、変化する現象的な実体として現れると解釈する。

恒常的とか現象的とかいう実体は、五感が必要とする「 精神的な概念・意識 」であると私は解釈する。

このように考えると、日本の原始時代に「 やおよろず 」の神がいて、万物の宿るという考えも、「 神 」をエネルギーと考えると、一応、納得をしている。

 

 

4、「 時間 」も「 空間 」も脳が作り出した概念、道具であると思うが、なぜそれらを必要とするのか。

 

これは、私の持論である「 記憶 」と関係すると思う。

第一章でも書いたように、人間生活には「 記憶 」が必ず必要だと思うが、この「 記憶 」についての今まで解明に、私は不満を感じていた。

これは、私の内面の分析であるから、主観的で間違っているかもしれないので、無視されても結構です。

 

私は、「 必要とするもの」と「 存在するもの 」とは別物と思っていて、「 時間 」は社会生活上は必要だが、それが宇宙創成の時から存在したとは考えない。

むしろ、「 脳 」が必要として作り出した道具だろうと思っている。

私は、「 時間 」や「 空間 」を時間意識と空間意識とし、「 空間意識 」を「 記憶 」の関係で考えて「 運動可能な余地 」という意味に理解した。

「 運動エネルギーを空間意識と時間意識を使って相当因果関係のある物語 」として、脳は保存すると考える

それは、第一章でも書いたように、上記の「 因果関係 」と「 記憶 」が、「 自分 」の「 可能性 」と関係しているからだと思う。

 

 

4-1、なぜ記憶するのか

 

第一章で『 私は、運動の過程から脳に受けた衝撃を「 印象 」と考え、その衝撃(エネルギー)を脳が蓄積し、それを整理し、関係づける接続詞のようなものが「 時間 」という意識(時間意識)であり、目覚めているとき「 印象 」を整理、蓄積し、睡眠する間に今まで蓄積した「 印象 」を結び、一定の運動エネルギーとして、海馬に蓄積する 』のが記憶とした。

 

印象とは、知覚(運動)した衝撃(エネルギー)と考えるが、エネルギーはすぐ消えるが、因果関係という「 物語 」として保存すれば脳の中に残る。

エネルギーの領域(神の領域)に時間や空間があるとしても、人間は「 時間意識 」と「 空間意識 」という意識でしか把握できないことは第一章で書いた。

「 時間意識 」と「 空間意識 」を作ることにより、脳内に「 運動エネルギーの因果関係という物語 」を成立させることにより、エネルギーを「 自分の可能性 」あるいは「 自分の能力 」とすることが出来る。

 

地球の自転により、直面するのは「 現在 」「 今 」、「 ここ 」の、自分が切り取った出来事であり、これに対して自分が持つ可能性の全てをかけて、いかに対応すべきか(例えば、今この空気を吸うべきか否か)、つまりT(時間)・P(場所)・O(機会)の中で「 生きる 」ために今まで経験から得た運動可能性をすべて発揮しなければならない。

その「 運動可能性 」は因果関係として保存、記憶していた運動エネルギーであり、それを発揮することだろう。

その日のために、「 記憶 」するのだと思う。

エネルギーが、O(機会)により形を変えるのに対して、T(時間・時間意識)とP(場所・空間意識)を組み合わせた因果関係という物語を想起して、運動エネルギーを発揮するために、「 記憶 」するのだと思う。

 

4-2、記憶から行動まで

 

私は、第一章で、時間意識と空間意識は「 アプリオリ 」にあるだろうと書いたが、それらは、「 大脳の構造 」に気(ki)が働くことにより、自然に発生するものだと思う。

人間は生まれながらに、左脳と右脳は持っているから、時間意識も空間意識も、生まれながらに持っているということにまる。

時間意識は「 因果関係という物語 」を順序よく論理的に作らないと役に立たないから、「 左脳 」から発生するだろうし、「 物語 」を作る前に目前の「 実体 」を感覚で捕らえる必要から、空間や感覚や直感を担当する「 右脳 」から、空間意識が生じるだろうと考える。

時間軸は左脳全体であり、空間軸は右脳全体であるだろう。

それから作られた「 運動エネルギーの因果関係という物語 」は、海馬に記憶され、地球の自転により直面する現実の気(ki)に合わせて、頭脳の中の気(ki)が反応して、時間軸(左脳)と空間軸(右脳)を働かせて、「 因果関係 」の蓄積が無意識(流れるもの・不随意運動)になって蓄積していた自分の可能性(能力)から運動可能性を引き出し、直面する現実に対処するだろう。

 

 

kandk55
作家:高口克則
誕生から死後までの意識
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