秋の青空 上巻

第一章 南へ( 2 / 12 )

 俺はしばらく、この街を離れる。あばよ、俺の愛した妻、佳子よ列車は駅のホームから南へ向けて走り出す。

 
 一週間前に妻の佳子は俺の部屋から出て行った。三年にわたる二人のマンション暮らしが終わり、俺たち二人は別れた。 

 ライター兼、小説家の俺、北本有二は、トランクに仕事の道具と着替えを詰め込んで、田舎の海辺の町に向かう。

 秋の初旬、俺は、暗い思い出が残るマンションの部屋から一時的に離れて、改めて田舎の旅館にこもり、今年の残りの仕事を、それなりにやり切るつもりである。

「何よ、偉そうに、あなたとの間の、重くて苦しい愛の夢なんて、もう要らないわ。あなたの只の建前の様な優しさと、その場しのぎの、なぐさめなんてもういらないわよ。私達は本当に愛しあった。でも、もう限界。私は、この部屋から出て行くの。その、無精ひげだらけの、冷たくて暗い、やさ顔なんて一生見たくもない。」

 一週間前の、妻の鬼の様な形相と、頬がちぎれる程に痛い、ビンタの感触は、今もはっきりとした感触として残っている。

第一章 南へ( 3 / 12 )

 俺は列車の窓から見える、暗い曇り空と、それなりにやってきた、この三年間が、やけにオーバーラップして、今更では、あるが陰気で虚ろな気分になる。

 列車は長い長い山間を通り、平坦な丘を抜けて行く。元妻とのマンション生活に入る少し前の五年前、一人きりで一ヶ月間滞在した、ひなびた海辺の田舎町、吉崎町に到着する。

 まだ、元妻とも出会ってもいない五年前、ぶらりと来た吉崎町。駅のホームに降りるやいなや、海端の少し生臭い臭気と、潮のツンと来る香りが、昨日までの、すさんだ現実感をだいぶ薄くしてくれる感じだった。

 バスで五年前と同じ海辺の旅館へ向かう。駅から広い湾沿いに沿って続いている一本の田舎道を、だいぶオンボロなバスは、のんびりと走っていく。
 
 バスの窓越しから見ると、つれずれと道際にお土産屋と民宿があり、反対側の窓からは、長い長い海岸線が続いている。
 
 四つ目の停留所でバスを降り、旅館は変わらず道沿いにあった。そう、五年前と何も変わらない、たたずまいであった。

第一章 南へ( 4 / 12 )

 旅館は青黒く光る屋根の瓦に、いかにも田舎宿らしい古びた門構えの古風な、いでたちである。ちょうどバスで来た一本道を挟んで、広い海辺と対面していて、そこから北に向けて延々と十数キロの海岸線が続いている。

 門をくぐり、中庭を通り、古びた玄関の戸口から旅館に入る。出迎えてくれたのは、五年前の滞在の時には女中だった、美しい女、君江だった。今では、だいぶ昇格して女番頭だそうだ。
 
 君江は、いかにも南の生まれらしい派手な目鼻立ちや、三十を過ぎた女の熟れきった肉体が、うっすら透けて見える様な着物姿も、昔より、もっと妖しく艶やかだった。
 
 五年前の滞在の時、君江とは、ロマンスとも言えない薄い恋をし、それなりの肉体関係もあったが、一ヶ月後、俺が街に帰る事で、二人の関係は自然に終りを迎えた。
 
 聞いたところによると、君江は、ちょうど二年前に結婚し、今は、亭主と連れ子の娘、両親の五人で暮らしているらしい。
 
 
 当方は、少し当てが外れて、空々しいという感じだ。
稲福政範
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