芸術の監獄 夢野久作(後編)

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芸術の監獄 夢野久作(後編)( 1 / 4 )

自己完結という語をあなたは一体、どういう時に使われますか? この言葉は実は、久作の作品世界をひもとくキーワードの一つである。いうまでもなくキーワードは読む人が望むぶんだけ幾らでも出てくる。私は他には「狂気への飽くなき探求」、「清と俗の対比」(「聖」ではないです)、「滑稽でしかも戦慄すべき私小説」などが思い浮かんでしまう。世の久作ファンに気に入って頂くためには地味な響きの言葉ばかりだが。

 

「自己完結」は、久作の作品に置いては作劇術上でも、作中人物の心理上でもかなめとなっている態度なのである。と言うのは、彼の作品ではとにかく一人称の語りの形式が多い。前編で挙げた「犬神博士」がすでにそうだ。名作と言われる「押絵の奇蹟」、「少女地獄」、「死後の恋」から、あまり有名でない「人間腸詰」(そーせーじ、と読む)までとにかく多い。あ、「ドグラ・マグラ」も一人称の語りですね。あれはあまりに入れ子構造になっていてつい「誰の身の上だ」といぶかって、戻って読んだりさせられる。

 

久作の作中人物は、自分に起こった「崇高と、深刻と、奇怪とをきわめた」(「死後の恋」)体験を聴き手にるると語るのである。この語りは大抵死を覚悟しての書き置きであることが多く、このことによって主人公の運命の壮絶な転回(転落というべきか)が、読者に違和を感じさせることなく伝わる。夢野の主人公たちは、一人で物事を遂行し、活動し、苦悩し逃亡し、一人でそれを語って、「これにて私は消えます」と言い残して去るわけだ。

 

この語りの方式は、いうまでもなく久作がしこまれた能楽に負うところが大きい。一人の人間の内面に起こる葛藤を、恩愛や執念を、独特の台詞回しと玄妙な舞で表現する能は、今や「格調が高すぎて見るのが気が引ける」舞台芸術の最たるものとなったが、扱っている主題は普遍的で理解が容易、と言うか、誰でも持つかもしれない感情の高まりを、ただひたすら訴えるというシンプルさだ。同調できればこれほど心が高鳴るものはない。特に恋物語では。

 

能の中の恋する人物はつねに不幸だ。深草少将は、果たされなかった小町への思い故に亡者と化し、式子内親王は定家との愛がみのらず、そのことで定家の執念にえんえんと苦しめられて、墓石に定家の葛がまとわっている。恋、執着、破滅が彼(彼女)の逃れられない運命であり、能はその意味で、運命への盲目的な疾走のドラマだ。

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そしてそういった人物たちは夢野の作品の中にも、ぎっちりとはめ込まれているのだ。古くから伝わる押絵だの、虐殺があった森だのといったおどろおどろしい大道具とともに。

 

「その時に私は、毛布の上に突っ伏しながら、あなた様と私の運命が、みじめに打ち砕かれてゆく姿をハッキリとまぼろしに見ました。青い青い、広い広い、大空か海かわかりませぬ清らかな、美しいものが、お互いに血をはきながらもシッカリと一ツに抱き合っている、あなた様と私の身体を吸い込もうとして、はるかの向うにピカピカと光りながら待っているのが見えました。そうしてあなた様と私とがズンズンとその方に吸い寄せられて行きますのが、何とも言えませず気持よく思われました。」(「押絵の奇蹟」より)

 

たじろぐほど絶望的な恋の様相。愛も恋も人を深淵に落とすのだと夢野は感じていたに違いない。ただし、その深淵は、どこか甘美でファナチックな、禁断の淵だったろう。こんな短歌を詠んでいる。

 

冬されば 貴族の如き恋をして 乞食の如く死なむとぞ思ふ

 

さて、私が取りあげるのはこの歌をそっくりなぞったかのような「童貞」という作である。めずらしくこれは、三人称で書かれている

 

冒頭で、男主人公、昂作は肺病に冒された姿で登場する。彼はピアニストだ。「音楽以外の何ものをも知らずに死んでゆきたい」「タッタ一人で大地に帰るべく姿をくらましてしまった」死期の近い青年の姿。

 

白いワンピースの美しい若い女が現れる。女は彼に、「乳母車をずーっとむこうまで押してくれ」といってお金を握らせて立ち去る。昂作は彼女に見とれてから言うとおりにする。

 

巡査と刑事に昂作は捕まる。彼らの話から、先ほどの若い女は、横浜で西洋人の夫を殺して高飛びした「ラシャメン瑠璃子」であることがほのめかされる。
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深良マユミ
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