このように相反する運動が同時に起きているのですが、我々は、一定の条件を設定して、事象を認識しています。たとえば、Y=X においては無限の存在を認識しますが、―1から+1までの条件を設定すれば、 有限の存在を認識できます。
私の基礎概念は、理論的にうまく説明できませんが、自分なりの表現として、短編を書き続けています。なぜ、短編にするかと言いますと、確かに、長編にすれば読者にとっては楽しめるドラマになるのですが、こうなってしまうと、どうしても読者は娯楽に酔ってしまうのです。だから、あえて長編をさけているのです。
小説は娯楽なのだからそれでいいじゃないかとおっしゃる読者は多いと思われますが、私は、表現したい基礎概念を優先したく、短編にまとめ上げています。でも、シリーズものにしていますので、それらをリンクさせれば、長編として読むこともできます。
言語の特性
基礎概念を理論的にうまく表現しにくいのであれば、映像化してみてはどうか?と言われる方もいらっしゃるでしょう。小説が映像化される例は、多々あります。言語を非言語化する手法は、小説をより娯楽化するのには適していると思われます。
松本清張の「砂の器」は、映画、TVで見られた方のほうが、小説を読まれた方より多いのではないでしょうか。確かに、映像化されるとドラマの内容はわかりやすく、主人公を通じて楽しめるのですが、果たして、人気俳優をクローズアップしたドラマで、作者の訴えたい気持ちがうまく表現されているのだろうかと考えると疑問が残るのです。
やはり、言語で訴えられるものと映像で訴えられるものには、違いがあります。決して、小説にとって映像化がマイナス的なものと言っているわけでありません。いったん、映像化されたものは、言語からなる小説とは別物と考えた方がいいのではないかと思うのです。
概念の熟成
私の作品は基礎概念の表現と述べてきましたが、この基礎概念を作品の創造に使いこなせるまでに、かれこれ約40年という月日を要しました。我ながら、基礎概念の熟成にかなりの時間を要したものだと思いますが、頭脳の歴史と思い納得しています。
中学校1年生のころ、下校途中で両側のガードのない橋の上を歩いていたときに、ふと頭に浮かんだ“物質とはなにか?”と疑問に思ったことが、基礎概念の発端になったのではないかと思います。
すべての物質に共通するものがあるのではないか?いかなる物質も運動しているのではないか?物質もエネルギー形態の一つではないか?非物質はあるのだろうか?宇宙は物質なのか?宇宙の外部は存在するのか?宇宙は膨張しているのか?なぜ、生と死は存在するのか?そのような疑問が脳内を駆け巡り、それらとのかかわりとともに基礎概念が熟成されていったような気がします。
小説を書き始めたのは、高校生からでしたが、基礎概念を踏まえた作品を書けるようになったのは、50歳を過ぎてからのように思います。基礎概念の長い熟成が、現在の作品を作り上げていると思えてなりません。
文学界の歴史において、才能ある作家が素晴らしい文学作品を世に送り出してきました。幸いにも私は彼らの作品を参考にさせていただきましたが、私の作品は文学作品の域には達していないでしょう。それでも、これから小説家を志す若者に、多少なりとも私の基礎概念が参考になればと思っています。
基礎概念の応用
そんなに基礎概念にこだわるのであれば、小説以外にも応用できるのではないか?とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。あくまでも個人的な考えですが、私の基礎概念は、芸術、科学、スポーツ、経済、政治などのあらゆる分野においても応用できるものと考えています。特に天然資源である脳の有効利用に役立つと確信しています。
今後も、人間の脳の考察において、個人と社会の両側面から基礎概念の応用を試みていきたいと思っています。時々、擬人化された動物が登場しますが、これは、動物の脳と人間の脳の共通する点や相違する点を考察しています。
突然の死というものが存在する限り、いつまで小説を書き続けられるかわかりませんが、自作品は、物質である人間が、将来にわたり、生と死という存在形態の変化をどのように考えていくのかを考察するものでもあります。
まったくのんきな話ですが、将来、この基礎概念が役に立ったと言っていただける読者が現れることを願っています。今後も知能と健康が続く限り、のんびりと小説を書き続けることで、基礎概念を表現していきたいと思っています。
私の話は分かりにくかったと思いますが、少しでも参考にしていただけたら幸いです。また、今まで自作品を読んでいただいた読者の方に心より感謝申し上げます。